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【対談】法大弾圧をどう考えるか(1~4)

 2008-05-31
昨年(2007年11月)行われた矢部史郎(法大市民監視団団長・著述家)と井土紀州(映画監督・脚本家)との対談です。2006年3月14日法政大学に生じた中核派、活動家、学生29人が逮捕された事件、314事件が先行して生じていたビラ貼り、立て看板を規制する大学の通達により生じたことにより、314事件は表現活動を不当に奪うものであったと見る向きもある。

本対談では、それを受けて、法大市民監視団団長であり、著述家として活躍する矢部史郎氏と『ラザロ』『LeftAlone』等の監督であり、法政大学OBでもある井土紀州氏とが対談を行う。大学の総合性が失われていく課程で、学生の分断が生じている。状況論に加え、これから、いかに活動していくかの理念や指針も語られる。
井土紀州氏の学生時代の貴重なエピソードも伺える。必見の対談。

ちなみに、我らが企画局長増井真琴も声だけ出演している。

出演:矢部史郎、井土紀州、高橋良平、増井真琴
撮影・編集:ズートロ
企画・制作:法大市民監視団
協力:文化連盟
時間:36分

【1/4】


【2/4】


【3/4】


【4/4】
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530集会の模様

 2008-05-30
待機画面左は思想家で法大市民監視団団長の矢部史郎氏です。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CC%F0%C9%F4%BB%CB%CF%BA
尋常ならざる法大の現状を憂いて駆けつけて下さいました。


5・30緊急集会アピール文

 2008-05-30
5・30文化連盟緊急アピール

法政大学のみなさん、こんにちは。毎度お騒がせをしています文化連盟です。我々が主催する抗議集会も早いもので6回目になります。毎回、拡声器を持ち出し大声を張り上げていることについて、我々各人、自責の念を募らせている事実をここに明記します。委員長以下三役はもちろんのこと、関係者から深くお詫び申し上げると共に寛大なご理解をお願いする次第です。
知ってのとおり、昨日5月29日に33名の逮捕者が出る大弾圧が起きました。我々はこの憎むべき権力犯罪に不退転の決意をもって立ち向かいます。これほど非人道的で大胆不敵な弾圧は類を見ません。学問の府である大学の構内において、衆人環視の中堂々と行われた悪しき公開処刑を我々のブログその他の広報活動でぜひ一度目にしてください。この大学はもはや、教育機関でも研究機関でもない。警察官が公然と女性に暴力をふるい、人権を抑圧した挙句逮捕拘束し人生の希望までも奪う、古代ローマのコロッセオとなんら変わりない負の遺産に他ならないのです。みなさんは自分が通っている大学の真の姿を直視してください。そして考えてください。いい加減目を覚ましてください。確かに大学は脅威です。大学当局の後ろには警察と裁判所がついています。一度反旗を翻したら最後、逮捕され、有罪率99%の裁判と前科を背負い生きる運命しか選択肢がない今の日本の現状を鑑みれば、我々も不用意にみなさんに決起を促したりはできないのです。それは重々承知です。ですが誰かが声を上げなければこの惨劇は永遠に続くでしょう。

我々、文化連盟は喜んで自由と正義に殉じます。犠牲者が必要ならわれわれがその役を引き受けましょう。恩田君に続き、斉藤、増井とみんな腹を決めています。だから我々が肉の壁となり、敢然と警察・司法を相手に抗議に立ちます。

だからどうかお願いです。我々に石を投げるような真似はやめていただきたい。

昨日の逮捕劇の最中に、学内で警察と衝突をしていた我々の仲間に足かけをした一般の学生がいます。
公安刑事に殴られる女性活動家を見て笑い声をあげていた傍観者がいます。
必死に訴える学生を横目にせせら笑い、罵声を浴びせていく一般の学生が多数出てきています。

あなた方のそんな態度は、ナチス統制下で連行されるユダヤ人に唾を吐きかけたドイツの民衆と少しも違わない。B、C級戦犯を捕まえ、公開処刑にした挙句屍に石を投げた戦後日本の一般大衆と少しも違わない。
関東大震災の直後に朝鮮人を虐殺した一般大衆と少しも違わない。
未開の地の蛮族に過ぎぬと、インディアンを殺戮したかつての白人入植者たちと少しも違わない。

我々は2年間もの間、逆風に耐えてきた。恩田君は自身の先輩を2006年の3月14日の不当逮捕で失い、その屈辱に耐えて今に至っている。斉藤君は友人たちを卑劣な大学当局の手法で挫かれ、孤立無援の戦いを続けてきた。増井君は尊敬する先輩と友人を、大学当局によって貶められ恥辱に満ちた日々を送ってきた。

それでも我々に、これ以上の鞭を打つのならあなた方は身をもって知るだろう。

絶望した人間の恐ろしさを

33名逮捕に対する抗議声明

 2008-05-30
「大学の自治」とは何であろうか? なぜ存在し、どうしてあるのだろうか?


戦前、1925年、「治安維持法」が制定され、大学は「天皇機関」と位置づけられることにより、その存在理由であった「学問の自由」の遵守ができなくなった。そして、その当時も共産主義者たちは弾圧され、大学を追われた。もちろん、理由は「国家体制への反逆」である。そして、当時の大衆も、彼らが日々集会やデモで自分達の主張をすることを「騒々しい」「邪魔」「平穏を乱す」として、なにもしなかった。笑っていた者もきっといただろう。


彼ら大衆がそのツケを払ったのはそれから10年以上後のことである。


我々には歴史がある。何を守るべきかわかるはずだ。


法政大学の関係者、総長・理事会・職員・教授全員に対して、私はあえて言おう。


クズであると。


文化連盟執行委員会委員長 斉藤郁真

529学内デモの模様

 2008-05-29




見ていると今が本当に21世紀なのか疑わしくなる衝撃映像。
女性に公然と殴りかかるスーツの男は警視庁公安部、石沢警部補です。

今回の逮捕劇で全学連の学生が負傷し、現場で弾圧に加担していた法学部の鈴木教授は返り血を浴びたシャツのまま授業に出たそうです。意図があってのことなのか、いずれにしても人格を疑いますね。

これはもう社会問題です。

33名逮捕ってなに???なんなの???(@_@;)

 2008-05-29
停学処分者の俺が来ましたよ。

さて、期間は残り一週間です。
法政大学の自習室で勉強がしたくてしたくて堪らないんですけど、果たしてカードキーは使えるのでしょうかね?中に入れても自習室には入れないんでしょうか・・・。3万人の法大生の中でどうして僕にだけ技術的なミスが起きるのですか事務次長の近藤さん。納得のいく説明をまだもらっていませんよ。


ま、そんなことはどうでもよくて本日の文連集会&法大包囲デモをご覧になった方に俺は問いたい。
正直な感想どうでしたか?




我々文化連盟はおよそ先週から緊急抗議集会を開催してきました。おれの処分問題に引っかけて法政大学の腐敗と沈滞、汚辱の現実を周知のものとすべく体を張って演説活動をしてきました。得体のしれないジャージを着た実動部隊の暴力と恫喝、学生部による管理権の濫用ともとれる恣意的な集会潰し、大学当局の恥部と犯罪性を明るみに出すことができ我々としても満足のいく結果になりつつありました。

だが今回、大学当局は警察力の導入という最終手段に打って出ました。記者クラブを通じたマスコミ(TBS)への事前通知と機動隊、公安部捜査員の大量動員。意図的な大学キャンパスの封鎖(強風のためと称して一部の区域を閉鎖。なお本日風は体感できず)と手際のよい逮捕劇。2006年3月14日の29名不当逮捕を彷彿とさせる史上空前の大弾圧が結果としておきました。今回の逮捕者は我々の集計で32名、昨日の5名の不当逮捕と合わせると37名で延べ人数に合算すると87名。100名の大台もいよいよ現実味を帯びてきました。

戦略的に見れば大学当局の最大の恥部と汚点を晒すことができたとも評せますが、この異常事態に危機と絶望と怒りを感じずにいる人間が数多くこの大学にいる事実を図らずとも目の当たりにしてしまった、俺の胸の内を敢えてここで明かすこととします。





60個を超える監視カメラと赤外線センサー、警察の息のかかった警備員と常軌を逸した職員、日常的に人権が蹂躙され自尊心が踏みにじられ、希望や未来がつぶされていくこの地獄絵図のような空間に平然と笑顔で生活している人間がいることに俺は絶望と恐怖を感じながらも、同時に一定の光のような期待を思い浮かべて今日まで突っ走ってきたわけだが、どうも俺は今日裏切りにあったようだ。
いや、裏切りという表現では変な誤解を生むだろうからあえて失望と言い換えるが、今日の集会で俺が感じたのは紛れもなく失望感と憎悪そのものだ。
学内デモの最中、参加者に意図的な足かけを喰らわせたやつがいる。
他にも罵声を浴びせたやつもいるし、俺自身ふざけた文句を耳にした。

「また中核のせいで正門が開かねえよ」

この期に及んでもまだ真意を理解できない愚民がいるらしい。まあ、この狂った空間に胡坐をかいてあくびをしているような連中だから無理もない。おれもある程度は予想していたし、ジャージ部隊に引きずられる全学連活動家を見て笑い転げていたやつらを見た時も我慢してスルーしたぜ。

だが堪忍袋にも限界がある。

今日のふざけた態度には敵意を剥き出しにして応じるしかないだろう。

お前ら一般学生は何様だ。
目の前で無辜の人間が不当な暴力を受けているのを笑ってみているお前らは人間のクズだ。
だいたい、この大学に居心地のよさを感じている時点で頭がどうかしている。
大学当局を応援しているやつなんかは論外。
この刑務所で「法律学を修めて将来は弁護士になります」、とか言ってる奴がいたら笑止の沙汰。
アフリカの飢餓や世界の貧困層の救済を唄う奴も同様。
人権擁護を叫ぶ奴なんかは愚の骨頂。

今目前で起きている非人道的な白色テロにどうして反応しないんだ。

俺達文化連盟や全学連はごみ以下の存在で殺してもかまわないのか??

実際に死人が出ないと関心がわかないのか?

どうせ誰かが死んだって無視を決め込むんだろうが。




俺は少々、諸君を買いかぶりすぎたようだ。




全学連や文連に喰ってかかる奴には毅然とした対処をしようではないか。
そんな奴らと一緒に闘うつもりはないんだよ。我々は。


俺たちが求めているのは常識をわきまえた分別のある「普通」の学生だ。

この状況下では一緒に闘おうなんて無責任はことは言えないが、最低限おれたちが体を張って守る約束だけはできる。声を上げようではないか。おれたちは学友の勇気を無駄にはしない。全力で守ってやる。

文化連盟は全員、逮捕を覚悟している。


だから共に行動しよう。おれたちは待っているぜ。
そして逮捕を覚悟しないと主張もできないこの大学、この国をともに憂いて、変えていこう。
窮鼠の意地を見せてやろうじゃないか。


文化連盟執行委員会副委員長
文化連盟 世論研究会 会長
停学処分者               恩田 亮
      

史上空前の大弾圧で逮捕者33名!!!

 2008-05-29
本日、われらが母校法政大学で史上空前の大弾圧が発生!
逮捕者33名、昨日の5名と合わせて38名!

延べ人数に合算して83名が逮捕されていることになる。

なんだこれは!

こんなの学生運動でもなんでもない、社会問題だ!

もうすぐ100名越えだぞ!!!


こんな大学、廃校にするしかないんじゃないか・・・。       

5.20と5.21集会の模様です。(第二段)

 2008-05-28

【告知】『凡庸の政治学』というドキュメンタリー【文化連盟】

 2008-05-28


凡庸の政治学4
凡庸の政治学3
凡庸の政治学2
凡庸の政治学1


はじめまして。法政大学ドキュメンタリー上映委員会のズートロと申します。
本会は、昨年度から活動を始め、法政大学学内の状況、特に文化連盟を中心に撮影を行ってまいりました。
この度、『314存在斗争』という作品の第二段として、『凡庸の政治学』というドキュメンタリー映画を製作しましたので告知させてください。

『凡庸の政治学~314存在斗争ver.2~』
(ドキュメンタリー地獄/ドキュメンタリー上映委員会制作/45分/ズートロ監督作/デジタルビデオ)
あらすじ 学友会再編を目の前にして、学生の間に分断が生じていた。多くが、学友会再編に関して、部分的妥協を行おうとするのに対し、一方では、強硬に学友会再編に異議を唱え続けていた。彼らは「被差別団体」と俗称されるサークルであり、公認サークルでありながら、大学によって不当な扱いを受けてきたサークルである。
彼ら「被差別団体」が法政大学内で行ってきたことは、過激でありながら、凡庸である。現代の政治性はここに潜む。彼らの軌跡にカツ目せよ!!!

お求めの方は、joeii2007@yahoo.co.jpに連絡ください。
文化連盟のブログを見たと書いてくださると800円(カンパ)でお渡しいたします。

増井や斉藤、恩田の斗争が見られます。

恩田氏処分問題に関する委員長アピール

 2008-05-28
一人への処分は全員への鎖となる!
恩田さんへの不当処分は全学的問題!



現在、文学部哲学科三年生の恩田亮さんに対して、停学2週間の不当処分がかけられています。
このことがなぜ不当で、なぜ全学生の問題なのか?
その理由について説明いたします。
 恩田さんは、昨年、自身が代表を務める世論研究会という出版サークルの活動の一環として、貴いジャーナリズムをもって、「大学改革」という一連の流れを受けた、近年の法政大学の学生への管理強化を批判・弾劾する記事を書きました。
しかし、それによって法政大学当局は、その記事の内容を誹謗・中傷だとして、恩田さんに厳重注意の処分を下しました。
そして同時に、彼に対して数々の嫌がらせを始めたのです。
キャンパスの出入時間をガードマンによってチェックされることは序の口、学生部職員は誰もいないところで彼に会うと罵声を浴びせかけ、遂には学費をしっかりと払っているにも関わらず自習室の鍵が彼のカードキー(学生証)では開けられないということまでしました。
そして今回は、恩田さんが友人と意見の対立により殴り合いの喧嘩をしたことをもって処分しようとしているのです。
確かに、喧嘩をしたこと自体はそんなにいいことではないでしょう。
しかし、そのときの大学当局の対応はあまりにも不公平で、目に余るものでした。
大学当局は、事件発生後、喧嘩をした一方の友人にだけ逓信病院で診断書を取りに行くように言い(しかも経費は学生センターが負担)、その後、恩田さんとその友人が和解したことにより、診断書が政治利用されることを危惧した友人がその返却を申し出てもそれを拒否するという暴挙にでました。
これは、喧嘩を口実とした、大学の政策を批判する人間に対する明らかな口実なのです。
 では、上記のことがなぜ全学生に関係あるのか?
それは、このような大学当局のやり方が「まかり通った」前例ができてしまうからです。
皆さんは、裁判において過去の判例が非常に重視されることは知っているでしょうか?
これは、戦後日本で最初に死刑判決が出された昭和58年の永山事件の最高裁の判決が、「永山基準」として、日本の死刑制度の適用基準となっていることなどを見ればご理解いただけるのではないかと思います。
話を法政に戻しますと、上記のような横暴を大学当局に許してしまえば、まさになんでもありになってしまう、ということなのです。
いわゆる出版サークルはジャーナリズムを守ることなどできなくなり、バイクサークル等大学当局が好ましく思っていない(バイクが無秩序に停まってて近隣住民から苦情が来ている、みたいな話が放送で流れています。駐輪所無料にすれば少しは減るんじゃないか?)サークルは恩田さん同様、なにがしかのスキを見つけてはいちゃもんをつけて活動を規制されていくでしょう。
一般学生も無関係ではありません。
昨日まであたりまえだったはずのことが失われていき(飲酒禁止等)、学費は気がついたら上がっている、ということが当たり前になっていくのです(学費に関しては「学費スライド制」導入によりすでに毎年上がり続けています)。
そしてもちろん、それに異を唱えれば新たな恩田さんの誕生となるわけです。
ご理解いただけるでしょうか?
恩田さんの処分を許さないことは、悪しき前例を創らせないこととイコールなのです。
自分だけは大丈夫と思わないで下さい。
これは、全学生の問題なのです。
 我々文化連盟は、恩田さんへの不当処分と闘います。
一人を守ること。
それが全員を守ることになるのです。



文責 文化連盟執行委員会委員長 斉藤郁真


停学を食らった俺が来ましたよ

 2008-05-28
どうもこんばんわ。停学2週間を食らいました恩田です。
動画や画像が頻繁にアップされていますが気になることが多々あります。







主役の僕の露出度が不十分です。







俺の演説動画や俺の画像をもっと貼ってください。シコシコとブログのチェックだけが現世の楽しみなんです。







それはそうと、ジャージ部隊のクリリンの名前がわれましたよ。両方とも。
気になる人は文連の集会をチェック!近日発表予定です。

24時間大喜利へ

 2008-05-26
おおぎり2 (2)



こんばんは。
企画局の増井真琴です。
22日の臨時集会後、執行委員会有志で落語研究会主催の24時間大喜利に参加してきました。

写真は右から二番目が斉藤郁真委員長です。
いつもは硬派な彼ですが(実際はそうでもないのだけれど)、深夜二時頃になると、上半身裸体で学友と胸板チョップを繰り広げていました。
実はそういう子です、彼は。

僕は哲研会長のアムロと久し振りにお酒を酌み交したり、全般的にゆったりしてきました。
去年の僕の誕生日会で、「おれはある意味で新井さんにインスパイアされたし、おれはある意味で増井君をインスパイアしたと思ってるんだ」と言った彼の言葉が最近よく身に沁みます。
結局僕も、執行委員会に入って、運動している。

不思議です。

【法政大学】5.21(昼休み)&5.22(5限後休み)文連集会

 2008-05-25
3.14法大弾圧を許さない法大生の会より転載








5.20と5.21の集会の模様です

 2008-05-22

恩田君に停学2週間の処分

 2008-05-22
わが文連の看板サークルである世論研のサークル員・恩田君に対して、文学部教授会は「停学2週間」との処分を下しました。

しかもご丁寧に「停学期間中の立入禁止」なるものもついています。明日から学校に来たら、ガードマンに「入構禁止だ!」と止められるわけです。

上等上等!

法大当局は恩田君を取り込むことも、屈服させることもできなかった。「おまえとは非和解だ」ということを、当局の側からもはっきりさせてきたのです。

もはやなんの遠慮もいらない。法大当局とは非和解だ、ということを何度でもたたきつけてやりましょう! きのう一昨日の集会どころの怒りじゃないぞ!

文化連盟緊急アピール

 2008-05-22
みなさんこんにちわ!我々は古くから法政大学の学生文化を支えてきた文化連盟です。悲しいことに今年の4月から学友会再編に伴い公認団体の看板を下ろされてしまったわけですが、現在もこうして心あるサークルさんたちのお陰で活動できています。我々は学生の視点で学生にとってよりよいキャンパスを創ることを目標に活動してきました、学生の学生による学生のための団体です。そんな我々がなぜこのような大胆な行動に出たのか、この文章を読んでもらって少しでも理解を示してもらえたら幸いです。

・・・恩田君への不当処分とは何か?

昨日の集会の様子をご存じの方は分かると思いますが、ちょっと怖い感じのスーツを着たお兄さんが恩田君です。彼はれっきとした法大生で哲学科の3年生です。彼は自身が主宰する文化連盟所属の世論研究会という雑誌発行サークルの活動の一環として一年前に大学を批判する冊子を発行しました。ですがその内容が大学教職員への誹謗中傷にあたる等と学生部に因縁をつけられ厳重注意の処分を下されてしまいました。さらにこのことを契機として恩田君への嫌がらせを大学当局は始めたのです。例えば、朝夕の大学の出入りを警備員に毎日チェックされたり、大学で職員とすれ違うと罵声を浴びせられたり睨まれたり、挙げ句の果てには自習室のカードキーを使用停止にされたりとまるで中学生のいじめのような卑劣な行為にさらされたのです。さらに外道な大学当局は恩田君の周囲の人間にも嫌がらせをする始末です。とある恩田君の後輩は恩田君と接点があることを理由に学生部が主催する同郷会への入会を断られてしまいました。ひどいとは思いませんか?そして今回、恩田君と彼の友人である某氏との個人的な喧嘩にまで首を突っ込み、処分を画策しているのです。恩田君とその友人は普段から仲が良く喧嘩についても既に和解し、喧嘩騒動については処分をしないで欲しいという共同の声明を大学に提出済みです。しかしながら大学当局は、喧嘩であるにも関わらず一方の友人にだけ病院で診断書を取ってくるように命じた上に返却を申し出た友人の意思を無視する暴挙に出ています。これは誰がどう見ても恩田君を貶める意図が見え見えの茶番ではありませんか。公平性なんて存在しない、恣意的な大学当局の陰謀です。このような非道なふるまいを我々は許しません。よってここに抗議集会を開催するわけです。


・・・目に余る大学の横暴

みなさんの中で大学に不満を抱いている方はいませんか?ことに最近のキャンパスに閉塞感と恐怖感を感じるという方がいたら、それは至極正常な感覚の持ち主です。大学が今行っている中核派・全学連排斥運動は常軌を逸しています。ナチスのユダヤ人迫害と同じです。ただ大学にとって都合が悪いからというだけで過激派のレッテルを貼り付け暴力を行使してまで締め出しをかけています。言うまでもなく大学は如何なる人間がいても良い空間です。クリスチャンも仏教徒も、自民党支持者から共産党支持者、ノンポリ、無宗教などなど色んな人間が存在を保証されている場所です。信教の自由、表現の自由、思想信条の自由を堅持しますと喧伝しているのは大学ではないですか。やっていることが矛盾している。それに最近では全学連だけでなく、恩田君のような一般の学生にも排斥をかけている。文化連盟の執行委員長も迫害を受けている一人です。彼と学内で会話をしていた彼の友人が職員に呼び止められて「ヤツとは話をするな」などと言われているのです。彼は中核派・全学連と接点があるというだけで迫害の対象にされています。学友会の再編に正々堂々と抗議をした時も職員に取り囲まれ持っていた拡声器を引きちぎられる暴行を受けています。こんな大学が許せますか?
極めつけは、中核派・全学連の活動家の女子学生に対する公然での暴行です。4月25日の集会の模様を目撃した人は分かると思いますが、ビラまきをしていた女子学生に木原章教授が乱暴を働いたのです。持っていたマイクを強引に奪い取ろうとする姿はまさに狂気。大学教授といういわば聖職者が全学連の一員であるということだけを理由に公然と女性に暴力を振るっている現実をみなさんは知る必要があります。目の前で、身近で行われている権力者による悪しき政治ショーを容認したらみなさんの品格が疑われます、この歪んだ大学がみなさんの母校だという事実は一生消えません。


最近では学生部と一緒になって全学連の女子学生に暴力を振るう学生まで出現しています。鉄道研究会の男子学生が公衆の面前で無防備な女子学生の後頭部を殴打したのです。女子学生が中核派・全学連の一員であることを理由に。我々文化連盟はこのような異常事態を手をこまねいて見ている腰抜けではありません。我々は善良な学生を守るために、大学の本分と学生としての誇りを守るために断固として決起します。これ以上、女子学生への暴行は許さないし一般学生への迫害も阻止します。大学の狂った施政に真っ向から異を唱えます。


突然消えた学生ホール、誰も望んでいないキャンパス整備、60個を超える監視カメラに目つきの悪いジャージ姿の職員の徘徊、日々繰り返される人権侵害と横暴。外堀校舎の駐輪場はなぜ有料なんだ?どうしてキャンパスで演説するのに許可がいるのだ?

文化連盟は一人も見捨てない、これ以上の大学の暴挙は絶対に許さない。
不満を抱いている人は一緒に声をあげましょう、我々が守ります。
この大学の汚辱にまみれた恥ずべき姿を目の当たりにして今一度考えてください。これが自分の母校なのかと。
目の前で人権と自由が踏みにじられている事を認識してください。
そして次は自分かもと危惧してください。可能性は誰にでもあります。

そして頭に来たら一緒に声を出しましょう。


文連の存在を知らしむるために

 2008-05-19
KC380067 (2)

文連の存在を知らしむるために の続きを読む

08文化連盟活動方針執行委員会案

 2008-05-08
ここに08年度文化連盟執行委員会活動方針案を提出いたします。

1.文化連盟の存立意義
文化連盟規約第一章総則第二条「本連盟は学問・文化・芸術の研究会実践活動を通じて平和と民主主義の発展に寄与し併せて学内生活の充実を図り学問・文化・芸術の向上に寄与することを目的とする」。
同章第三条「本連盟は法政大学学生の学問・文化・芸術を研究対象とする自主的研究団体によって構成される」。
同章第四条「本連盟加盟団体の研究及び活動の内容は自主的且つ創造的でなければならない」。
これら総則第二条から第四条までが文化連盟の存立理念を強く示している。我々文化連盟はあくまでも「法政大学学生の学問・文化・芸術を研究対象とする自主的研究団体によって構成」(第三条)され、且つ、「学問・文化・芸術の研究会実践活動を通じて平和と民主主義の発展に寄与し併せて学内生活の充実を図り学問・文化・芸術の向上に寄与することを目的」(第二条)とし、「研究及び活動の内容は自主的且つ創造的でなければならない」(第四条)。
我々文化連盟は、その所属サークルの文化的発展(自主文化創造)を相助け合い相互に高め合うところにその組織の眼目があり、当連盟の理念である相互保障とはあくまでもその本来的目的である「文化的発展」の為の機能でなければならない。
第二章以下の組織運営に関わる諸事項は、この総則、理念を踏まえた上でのものであり、この点を捨象した下での議論討論は、基本的にナンセンスである。
繰り返すが、我々文化連盟はその所属サークルの文化的活動を相助け合い相互に高めあうところに、その目的、即ち、存立意義がある。
ここを曖昧にしては、ならない。

☆要点☆ 
我々文化連盟はその所属サークルの文化的活動を相助け合い相互に高めあうところに、その目的、即ち、存立意義がある。

2.文化連盟の今後の活動方針
昨年度をもって、我々は予算権(金)と公認権(権威)を手放すことととなった。
既得権益は我々の手を離れた。このことで多くのサークルは文化連盟に所属し続けることに何らの「メリット」も感じられなくなった様子が散見される。
これらを念頭に置いた上で、我々は当連盟の行く末をどのように見定めてゆくべきなのか考えてみたい。
そもそも「メリット・デメリット」という言葉は極めてエコノミカルな視座であり、当連盟が目指すところの「所属サークルの文化的発展」とは本質的に無関係である。
文化的な繋がりにエコノミカルなアプローチを行うことは当連盟の理念に対し本来的な誤謬を犯している。
我々は何らの実利が無くとも、前出の理念のもとに共に行動することは可能であり、更に言えばそれが本来の姿である。
利権の再配分を主目的とし、そのもとに群がる理念無き去勢サークル連に背を向け(そして、背を向かせ)、我々は確たる理念のもと相集う必要がある。
その理念とは既に前出した第一章総則である。
では実際の活動方針を考えてみたい。
[1]前出の理念を土台とした上でのコミュニティ性の充実
[2]前出の理念を土台とした上での学内問題情報共有及び様々な諸相に於ける政治的抗議活動をふくめた善後策の遂行
ここで重要なことは[2]を補完するものこそ[1]である、ということだ。
当然のことながら、信頼関係無き他者と共に、処分を受けることになるかも知れない政治的抗議活動を共にすることはできない。
サークルの看板を背負うとなれば尚更のことである。
[2]は多くのサークルにとってハードルが高いものとなるであろう。
故に、充然たる信頼が築き上げられていない前期初頭に抗議やデモ等の一般的にラディカルと目される行動を打ち出すことは本部としては控えたい。
文化連盟名義の抗議文でさえ、端的に言って、危ない。
信頼関係無き他者に「相互保障」を一方的に押しつけるような遣り口は、その主張の正当性如何を問わずあまり誠実とは言えないし、人を感化することもできないであろう。
我々執行委員会が先ず何よりも総力を上げて取り組まなければならないのは、所属サークル間の人と人との交流であり、信頼関係の構築である。
[1]の充溢が無ければ、[2]の曙光は永遠に地に昇ることはないであろう。
※[2]については保留とする(常任委員会の場で)。

☆要点☆
[1]前出の理念を土台とした上でのコミュニティ性の充実
[2]前出の理念を土台とした上での学内問題情報共有及び様々な諸相に於ける政治的抗議活動をふくめた善後策の遂行
[1]あっての[2]であって、その逆ではない。何よりもまず所属サークル間の信頼関係を構築することが重要だ。
※[2]については保留とする(常任委員会の場で)。


3.今後の文化連盟の実際的活動
では前出の[1]を成し遂げるために、実際的に我々は何を為す必要があるのか。
まず第一に常任委員会の場を①企画コミュニティと②学内問題情報共有及び政治的対応の二部立てとし(時間的にもこの順序が望ましい)、前者だけでもその参加を(個人単位であっても)許可することを提案したい。
現在文化連盟からの脱退を決定したサークルや保留中のサークルに話を聞いてみると、文連に纏わりつくその政治性が、現在保障されている自らの活動を脅かすものになるのではないかと、非常に危惧している様子がみて取れる。
一方で文化連盟への帰属意識も同時に強く持ち合わせて居り、そのコミュニティ性への愛着と、その政治性へのリアリスティックな懸念がお互いに相克しているようである。
そして多くのサークルでは後者が勝鬨を上げることになる。
だが、逆に言えば後者の不安を取り除くことができれば、前者へのコミットメントを控える理由がなくなるのではないか。
ここでも再言するが、前期初頭は第一に「信頼構築」ありきで動く必要がある。
如何に正当性ある主張(大体においてそれは主観的なものであり、独善的である)を浴びせかけても「人を動かす」(D.カーネギー)ことができなければ、物事は何も変わることがないからだ。
では、コミュニティ性を担保し得る実際的な企画はどのようなものを、どのくらいの規模と頻度で行うのが良いだろうか。
ここについては何とも言えない。二分割前半の「企画コミュニティ」の時間帯に多くのサークルから活溌溌地に意見が出れば良い。
そのなかで、文連への愛着も深まるというものだ。只今のところは本部が企画のイニシアチブを取らざるを得ないが、中長期的には所属サークルに先導を切ってほしいと願う。

☆要点☆
常任委員会の場を①企画コミュニティと②学内問題情報共有及び政治的対応の二部立てにして、①だけでもその参加を広く(個人単位でも)集い許可する。
実際の企画の運営は今のところは本部主導で行う。

文責 企画局増井真琴

情報技術とぼくらの社会(2006年4月発行『季刊社会科学』よりの転載)

 2008-05-07
 もしかしたら情報技術で社会を語る試みは時代遅れのものかもしれない。一時期の「IT革命」に代表されるようなITバブルの世紀を経てホリエモン逮捕に象徴されるようなバブルの崩壊の現在に至る。かつて横文字の華々しさとともに使われていた「情報技術」はもはや古びた概念として確認されるだけだろう。
 だが、最近の傾向として東浩紀や鈴木謙介、大澤真幸などのようなメディアに登場する批評家の中には、社会を情報技術の比喩でもって語るという傾向が見出される。現在、私の手元にある数冊の彼らの著作を見ても「ソフトウェア」「OS」「データベース」など、かつてもてはやされた情報技術の用語が並んでいる。本来なら、情報技術で社会を語ることは奇抜ささえ、残らない状況だ。ではなぜ、彼らが情報技術の言葉で社会を語るのかに謎が残る。本論文ではそこに問いを立てたい。

 だが、その答えは単純かもしれない。比喩を用いることが可能なのは、そこにアナロジーがみつかるからだ。情報技術と現代社会との間には共通点がある。まずはアナロジーを見つけるために彼らの語る社会の様相を素描してみよう。
まず彼らにおける社会の様相は「ポストモダン」であることには一致を見ている。ポストモダンとは、万人に共通な合意がなくなった社会であるということだ。価値観が多様化したという事実は現象として認識されているかもしれない。かつてあった国民国家幻想や世間などのように我々が「我々」と語る際に暗黙の前提としてあった集団がなくなる事態をポストモダンと呼ぶ。それはいわゆる「大きな物語」が消滅することを意味する。近代から後期近代に移行すると、共同体がうまく機能しなくなり、人間関係が断片化し、隣近所がなにをやってるかさえわからないという状況がそこかしこで確認されうる。下町の長屋住まいがマンション化するという移行をイメージするとわかりやすいかもしれない。
ここで重要なのは大きな物語のように社会の「中心」がなくなることだ。メディア論の文脈で言えば、大きなメディアの優位が崩れ、ブログやはてな、Mixiなど様々な小さなメディアが乱立し、TV、ラジオの機能が縮小する。その際、かつてあった「誰にでも届く」TVという「中心」が消え、「誰に届くかわからない」インターネットが勃興する。
だとしたら、現代社会と情報技術のアナロジーは容易く見つけられるかもしれない。
ネットワーク及び情報技術の概念は、それまでの通信と異なり、「中心」を持たないことにその特徴がある。
ネットワーク技術が開発されたのは20世紀の中ごろにさかのぼる。当時、アメリカはソ連による宇宙からの核攻撃や実際に起こった電話基地局を狙った同時テロの影響で、非常時に際しての通信戦略に腐心していた。ここでの問題は通信には「中心」という通信基地局があることに集約される。通信基地局は各地の通信局から発信される通信を管理し、中継する役割を持つ。通信は「中心」よる一括管理がなされていた。そして、当時はその「中心」がネックになり始めたのである。電話網が電話基地局という「中心」を攻撃される危険であるとして、「中心」がないシステムを考案した。「中心」を分散化させ、基地局の崩壊による通信網の麻痺を防ぐことにしたわけだ。そして、それが現在のインターネットの基礎になり、情報技術は全般的に「中心」を持たないシステムになった。
 そしてここで現代社会と情報技術のアナロジーがみつかる。現代社会と情報技術とは「中心」をもたないということで一致しているわけだ。ここでとりあえず問題を閉じ、より問題に接近するために多少迂回しながらも情報技術のモデルの助けをかり「中心」の無い社会を描写することにしよう。

 まず、リバタリアニズムの権力論から入ろう。リバタリアニズムはポストモダン的という意味で現代の政治思想だ。公共性という「中心」に準じる限りにおいて自由を放任するリベラリズムや、共同体という「中心」に従う限りで自由を許容するコミュニタリアニズムとは異なり、リバタリアニズムはどんな共同体であっても他の共同体に迷惑をかけない限りではなにをしても良いという「中心」無き思想だ。そこでは守られるべきルールはほとんど無く、仮に共同体内でホロコーストを行っても他に止める術はないのだ。そのため、一見、リバタリアニズムの思想はシンプルであり、他の政治思想と比べて放任的に映るかもしれない。だが、リバタリアニズムは「中心」がないことで多様性を保持できるという特性がある。それは分散化した結果、物理的に管理できる量が増えたという理由による。そのこと自体は大きな利点ではあるが、「中心」がないことは権力論にとって致命的である。これまでの権力は「中心」がメッセージを発することで成り立っていた。そして現代の権力は「中心」の無さにより、規範さえ、生じない。ここにおいて困難を迎える。
リバタリアニズムの権力論がなぜ難しいのか。そのことに答えるために、なぜ我々が権力に従うかを簡単に説明しておこう。
 まず、我々が行動する際、いくつかの可能性を事前に考えている。その可能性はこれまでの経験により増えた選択肢の束だが、我々は実際に行動する際、その選択肢の束から、その状況に最も適した選択肢を選択する。選択肢を選ぶ過程には規範ないし権力に照らし合わせることでその選択肢を善‐悪のスペクトルに変換し、分類する。そのことにより、規範の定める適切な行動ができ、秩序が生成されるという仕組みだ。選択肢は規範により選ぶことができると換言してもよい。
だが、現代社会にとっての「中心」の支配は物理的に困難になる。繰り返すが、ポストモダンとは個々人の幸福が個々人各様になり、複雑性を増すようになる。そのことにより、「中心」が権力を行使する手段は失われていることになる。メディア論に照らして言えば、大きなメディアが不可能になったことが例として挙げられる。つまり、規範が消える。
 では、規範の消えたリバタリアニズムはどうなるか。当然、選択肢はスペクトルに分類されず、宙に漂うしかなくなる。つまり、中心が機能しなければしないほど、権力、規範にとって思わしくない行動が増える。これは昨今の犯罪事情に照らしても明らかだろう。規範を通過しない犯罪は、動機の不明瞭さで、我々を不安にさせる。
 リバタリアニズムは中心がないことで多様性を確保できたはずであるにも関わらず、中心の無さゆえに権力が行使できない構造がある。だが、トック・ヴィル主義に見られるように、共同体間の調整を元にした国家体系となっているアメリカでは意外とうまく行っている背景がある。ではそのシステムはどうなっているのか。
もちろん、これは中心の無さを先取りしたネットワークの世界のシステムで解くことができる。ネットワークは中心によらずに分散化した結果、逆に、ネットワークを見渡す視点をもたなくなってしまった。つまり、「中心」が意味づけできるキャパシティーを物理的に超えてしまう。だが、そこで登場するのが検索エンジンの存在だ。
 検索エンジンはまさに情報の海と化したネットワーク上を照らす役割を持つ。我々が普段使用するGoogleやyahooなどの検索エンジンは意外と単純な図式で成り立っている。GoogleはHPを検索する時にランキング形式で表示されるのだが、その際のランキング方式に検索エンジンの特徴が現われている。まず、任意のHPが別のHPにリンクされている場合、それをカウントする。また別のHPにリンクされている場合はそこをカウントする。そして、そのカウントの数でランキングを表示するのだ。そしてユーザーはそれを知らずに上からHPにアクセスする。つまり、検索エンジンの側でユーザーが「見たいであろう」と予測するプログラムを実行し、ランキングを表示するのだ。当然「見たいであろう」理由は多くの人がそれを見たいと思っているからあなたも「見たいであろう」という論法で成り立っている。人はそれを知らずに情報を享受しているのだ。
 換言するならば、検索エンジンのアルゴリズムが人間の代わりに選択肢を意味づけしてくれる機能だと言える。そうでなければ、人間にとっての認知限界を超えてしまうことになる。
かつての大きな物語を前提とした権力が、所与の選択肢に意味づけを与え、それを善悪のスペクトルに変換していた。しかし、「中心」が存在しないことで意味づけが不可能となった。従って、取るべき措置は任意のアルゴリズムによってあらかじめ選択肢の束を選別し、どの構成員にとっても悪である選択肢を初めから奪ってしまうことで「中心」が不要になる。つまり、ユーザーにとって合理的である可能性の低い選択肢を初めから奪ってしまう。これが検索エンジンの比喩になる。
 リバタリアニズムもこれと似た構図を持つ。要は選べる任意の選択肢を善悪のベクトルに分解するのではなく、「見たいであろう」と予測する選択肢を選ばせられるという仕組みによって権力は作動する。つまりは選ばれたくない選択肢を初めから選べないようにしてしまうのだ。東浩紀は前者を規律訓練型権力と呼び、後者を環境管理型権力と呼ぶ。環境を管理することで選択肢を選ばせないようにするのだ。その論拠は「見たいであろう」選択肢であるという理由からだ。
 つまりこれによって「中心」に依らずに全体に行きわたるメッセージを発することができ、リバタリアニズムは「中心」を経ることなくネットワーク間の秩序を維持できるのだ。社会の正しさと共同体の善を区別できる。従ってリバタリアニズムの国家が悪いというときには、ネオリベラリズムがいけないのではなく、「選んではいけない選択肢を選ぶ」基準が悪いのだということができる。
話はずれるが、アメリカの場合は具体的にはネオコンだ。この場合、共同体の善がネオリベラリズムの正に置き換わり、アルゴリズムが形成されていることを指摘しておく。彼らに見えているのは石油利権共同体の善である。そして、共同体の善に反対するイラク、アフガンを攻撃する。

ここで意味的領域における権力が非意味的な領域の権力に置き換わるという変化がここで起きていることが指摘できる。そして、同時に社会におけるコミュニティーの成立条件がこれまでのそれとリバタリアニズムのものとは異なるようになる。つまり、大きな物語による意味づけではなく、リバタリアニズムはアルゴリズムに反しない限りにおいてコミュニティーは成立するということだ。その分、分散化が働き、インフラの収容能力があがる。そこでは「中心」による善-悪図式ではなく、アルゴリズムによる「正-偽」図式になる。ここにおいて正と善の分離が生じ、トック・ヴィル主義が可能になる。
だが、逆にリバタリアニズムとは、つまり、閉じられることにより開く構造にあると言える。ゲーテッド・コミュニティーのようにありうるリスクを意味上で合意するのではなく、リスクになりうる選択肢を奪うことでメタ的な信頼を得る。だが、ここにおけるリスクになる選択肢とはゲーテッドの名の通り、他のコミュニティーと関わるという選択肢を奪うことを意味する。間コミュニティー性は「中心」により、保証されなければ存在しない。つまり、他コミュニティーに対しての想像力が開いていないと言うことができる。間コミュニティー性はアルゴリズムにとっての不可能性なのである。
そして、アルゴリズム的な世界観はこのゲーデッドなコミュニティーによって占められている。従って「多様性」に見えるのは単なる錯覚で、文化論の文脈で語られる多様性とは異なる現象だと言える。つまり、意味づけされた選択肢を合意の上で排除するのではなく、選ばれない選択肢としてしまうことと同じ論法である。
従って我々が学ぶべき箇所は、情報技術のモデルと大きな物語的なモデルとの差異に敏感になることであり、そして情報技術のモデルは中心を語ることができないということだ。多様性はこの場合、中心によって可能となる部分だ。
 東浩紀などの論者はリバタリアニズムがこれまでとは異なり、多様なコミュニティーの成立を可能にする下部層としてのインフラと捉えているが、これは単純に誤解である。
我々の社会は権力-被権力の関係、つまり中心-周縁の関係ではなく、周縁とそれを規定するアルゴリズムの存在だと整理することができる。そこでは社会を脅かす「特定」の悪は存在せず、共同体の下部構造であるアルゴリズムを脅かす存在が唯一としての偽としてある。この差異は重要だ。

以上の議論が情報技術で語る社会の素描である。もちろん情報技術の比喩で社会のあらゆる事象を語ることができるだろう。重要なのはそのモデルが中心を持たないということだ。そして現代の社会は「中心」を持たないモデルが有効なのは確かだろう。もしかしたら「中心」を語る役割を持つ哲学は用済みかもしれない。
だが、情報技術のモデルは欠陥がある。そもそも根本的な問題としてアルゴリズムに規定された社会がなぜ悪いのかという問いには答えられないという問題がある。無理に答えようとするとその悪は「アルゴリズムに悪と書き込まれているから悪だ」という循環を含んだ論法に陥らざるを得ない。この理由は、なぜ悪いかという問いが中心に関わる問いだからである。その問いを情報技術のモデルは「中心」を持たないゆえに語ることはできない。
またリバタリアニズムにおける多様性の問題もこれと同様の質をもつ。間コミュニティー性はまさに中心に関わる問いだ。全体を見渡す視座にもなりうる「中心」の無さは、全体を見渡すことの困難さを意味する。従ってコミュニティーは孤立した島宇宙となるしかない。
中心ではなく周縁に依存することで効力を発揮する経験的な学問は超越論については無知だ。そもそもネットワーク型社会が善なのか悪なのかという根本的な疑問は哲学にしか判断できない。情報技術の比喩を語る論者は「中心」の無さゆえに根本の問題を解けずにいるのだ。そして、これが現在我々が抱えている問題である。(了)



※トック・ヴィル主義
個人の所属する共同体における善-悪の概念を、共同体の集合である社会の正-偽と区別する思想。このことにより、アメリカでは多様な人種がそれぞれの利益を守りつつも、社会を崩壊させまいとする力になる。

※ゲーテッド・コミュニティー
都市化などの影響で共同体に不審感が蔓延すると、住民は不安に陥る。それを防ぐため、一種城のような共同体を作り、不安感を無くしてしまう。また、ゲーデッドコミュニティーの成立には情報技術の進歩が関与している。


ズートロ(05年法政大入学。Ⅰ部社会科学研究会所属)

08文化連盟ブログ開設

 2008-05-04
本日、法政大学文化連盟のブログを新設しました。
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プロフィール

文化連盟

Author:文化連盟
1959年創立の法政大学サークル連合。2008年3月に非公認化。活動理念は「自主文化創造」。本業のサークル活動に邁進しつつ、2006年3月14日以来延べ126名の逮捕者、34名の起訴者と13名の処分者を擁する監獄大学爆砕へと学生運動も同時並行。直接行動系。ゆとり世代代表。愛は強し。

2012年5月31日、東大ポポロ座に続き暴処法を粉砕し無罪を勝ち取る。もはや敵なし。俺たち最強。

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