つれづれなること 5
2008-10-25
我々はなぜ立ち上がったのか?5月20日に決起して以来、もう半年が経った。10月17日の闘争を終えて、我々はもう一度初志を思い返すべきなのではないだろうか?
学友会再編や、「文化連盟に残ったら補助金は出さない」など、多くの要因があって、4月~5月の間に30サークルが文化連盟を脱退した。
私は忘れない。5月の上旬、現在の三役とともに飲食店で解散を本気で討議したことを。その中で、「このまま終わるくらいならテロをしてやる」というような意見すらでたことを。あの絶望的な雰囲気を。
「負ける」とはこういうことなのかと思った。
そして5月20日に至るまでの間に、現文化連盟副委員長恩田亮に処分がかかる中で、「我々は法政の文化を60年近く担ってきた文化連盟の名でまた仲間を見捨てるのか」ということを提起し、「我々が存在したこと」を残そうじゃないかと、闘争を選んだ。そしてその結果として執行部全員が処分されて退学になり、文化連盟が消失しようとも、学生会館設立要求すら出した第一文化連盟らしい終わり方ではないかという結論に至った。はっきり言って文化連盟という組織を簒奪し、私物化した結論だったとも思う。
何はともあれ、我々は闘争を選んだ。しかしながら、覚悟を決めているのは当然ながら執行部のみ。キャンパス利用規則があるため、集会など大々的な抗議を行い、貫徹していくには、予想されるジャージ部隊や学生部からの弾圧に抗する力が必要だった。そして、タブーとして扱われていた中核派との共闘を我々は決断し、このブログの最初のころにあがっている動画、5月20日の正門前広場での騒乱となったのだ。
文化連盟の決起要綱からも読み取れるとも思うが、我々が決起した精神、それは、「以身殉道」であったはずだ。ガキの甘いヒロイズムとも取れるが、我々は確かにそれを持って決起したはずだ。
OBの方から教えてもらった観点の中に、「社会運動なんてのは99%が負けるんだ」というものがある。
それはそのとおりだろう。だからこそ、負けるにしてもきれいに負けるべきなのだ。かつて中核派と革マル派の内ゲバが社会運動全体を貶めてしまったようなことを我々は繰り返してはならない。
文化連盟各員はもう一度決起要綱を読み返そう。我々の運動の意義とその重みを再確認しよう。
我々が目指しているのは、法政大学、ひいては大学という場における思想・信条の自由、言論・表現の自由の獲得である。
斎藤 郁真