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つれづれなること 13

 2010-02-21

 自然権。そしてそれに基づく人権。近代の法律はこれを前提に作られている。だから近代法には人権が存在し、それに基づく近代裁判には魔女裁判(および封建時代の裁判)と違って取り調べ段階での拷問の禁止と被告人の防御権が広範に認められうる(実際にどうかは別として)。

 多くの方が知っておられるように、人権という言葉が歴史に本格的に登場するのはアメリカ独立戦争及びフランス革命である。そしてこれまた多くの方が知っておられるようにそれは独立宣言書でもフランス人権宣言でも同じように文書で登場した。

 しかし、文書とはしょせん紙である。火をつければ焼失するし、水をかければふやけて駄目になる。ハサミを入れれば切れるし、引き裂くことも簡単である。現実の質量は羊皮紙一枚分であり、せいぜい10g?というところだろう。

 その紙が、なぜ力を持ちうるか? 歴史的重み? それは質量にしていったい何gなのか? それは力ではない。人権が侵害されるときにそれを止めることはできない。

 では人権が力を持つ所以は? 簡潔にいこう。それは暴力だからである。独裁的な王権に対して暴力を持って行われた民衆の闘争、これが人権の本質である。

 当たり前のことだが、この世界は三次元である。三次元で力を持つのは三次元の力だけである。フランス人権宣言を大声で唱えて、雷でも降ってくるのか?

 かつて老子は言った。「文明が進めば進むほど、偽りが増える」と。彼は物々交換が貨幣に取って代わられていく現実を見て言ったわけだが、これは確かにそのとおりである。株式市場での為替取引は、どんなに現金すなわち紙幣および貨幣で取引されることがほとんどなくても、それは貨幣に依存している。そして貨幣は現物に依存しているのである。

 権利は、それが法律という形で社会に追認されたときによく倒錯する。人権は、王権に対する闘争の結果勝ち取られたものであるのに、勝ち取った世代の次の世代は人権があるから闘争が可能だと思い込む。そしてこういう人権を知っているのではなく信仰している人間は、目の前で人権が無視されるときにたいてい「人権があるから誰かがなんとかしてくれる」とか思う。

 繰り返し言おう。この世界は三次元である。現実は、現実的な力によってしか動いていない。かつては私も人権を信仰していたが、法政大学の闘争を通して人権を知った。

 確かに、個人と個人の関係は力を伴った契約書よりもたんなる口約束のほうがより大きな責任を伴うことがあることは事実だ。しかし、それは人間が社会を作る生物であり、そこから生じる社会性の問題としてある。

 我々が忘れてはならないことは、すべてではないにしてもほとんどの場合、内容が形式を決定する、ということだ。「他の人間を奴隷にしてはならない」という内容は他の人間を奴隷にしている奴をぶん殴って無力化させることで生まれる。「人は生まれながらに自由であり、身分に縛られない」という内容は同じく身分を作り、そしてその身分に固執することで、(その人間が個人的に善人か悪人かはさておき)結果として身分制度を守り他人を奴隷にする奴をぶん殴らなければならない。仮にこういう過程が平和的に過ぎることがあるとすれば、それは前者(人権)側が持つ力が圧倒的すぎて相手が降伏した場合だけである。

 何がしかの権利を守るということは、その内容を実行することであって、文言が変わる・変わらないの話だけに落としこめてはならない。

 手段は目的と状況によって決定されるので、今の日本では集会やデモという形で、すなわち暴力を裏に隠す形で行使するのが最も適当であることはいうまでもないが、それによって自分たちが暴力を振るっていることを忘れてはならない。選挙権もまた、背後に暴力が潜んでいるが、これを忘れたとき、選挙権は「自分たちで自分たちの指導者を選ぶ=自分がいいと思う選択肢を掴み取る」ための、主体性を伴った権利ではなく、「今ある選択肢から最良だと思われる指導者を選ぶ=なんかいいこと言ってるやつにいれとけばいいんじゃね?」という主体性0のものへと落ちる。基本的に現代においては社会を改良する手段は選挙だが、その選挙の質は普段民衆一般がどれだけ政治に参加し、討論するかにかかっており、そしてそれは本質的にはどれだけ民衆が政治的な暴力を行使しえるかにかかっている。選挙はすべてではなく、形式であって、重要なのは過程なのである。

法律であれ、権利であれ、作るのも使うのも人である。法律という形で何がしかの権利が追認されていることは、その権利を守ることを有利にすることはあっても、その権利の本質を守っているわけではない。

 我々が「人権は存在する」というとき、存在しているのは人権などという抽象的な二次元界の力ではない。存在しているのは人権の内容を守ろうとし、闘争する現実の人間達の力なのである。

 最後にひとつだけ。今も続く人類史において暴力は二つの役割を果たした。ひとつは、誰かが誰かを抑圧する役割。多くの人がこの役割ゆえに暴力を毛嫌いし、自らも暴力を使おうとしなくさせる面である。そしてもうひとつは、誰かが誰かを解放する役割、もしくは自らで自らを解放する役割。王権を破壊し、奴隷を奴隷主から解放し、人権を確立した面であり、マルコムXが知性と呼ぶべきだとした面である。もちろん、暴力は暴力であるから、現実には暴力を行使するとたいていこの二つの面は両方発生する。ルイ16世をギロチンにかけ、抑圧することでフランス人は身分制度から解放された。(現実にどれほどいるかは別として)快楽殺人犯を抑圧することで人は解放される。善と悪は人の観念であり、暴力もまた使い道によってその主な役割を変える、ということである。

2010年2月21日 齋藤 郁真

コメント
鈴木邦夫さんが言ってた通り、学生運動をして、学校に行ってないひとほど、勉強するんですね。
こんな文章が書けて、こんなに世の中を考える人が、社会的に抹殺されていくのが、人間の歴史なんですが、もし我々が歴史を創る主体であるならば、そういう歴史を決定的に変えていく必要があるのだと思います。
ヘーゲルは、弁証法を言いましたが、歴史は、アンチテーゼを提起する人を排除して発展してきたように思います。
アンチテーゼが抹殺される状況をひっくり返すことが革命であり、文連がやってる革命っていうのは、中核のプロレタリア革命ではなく、そういう革命なのかな、と理解してます。
【2010/02/21 13:15】 | #- | [edit]
 余談ですが、カール・マルクスは、人類の普遍的当為を共産主義に措定し自らをその実践者たらんとしました。そしてこう言いました。「ある時代を支配する思想は、常にただ支配階級の思想であった」(共産党宣言)。階級支配のイデオロギーを拒否し支配そのものを打倒しなければなりません。
 学生運動の創出を賭して法大学生、とりわけ新入生がその一翼を担われんことを希望します。
 大学の授業も貧困です。似非教授が広い教室で、ほんの一握りの学生しかいなか、「10年20年前の講義ノート」を使って十年一日のごとき「腐った授業」をしています。
【2010/02/21 16:48】 | #- | [edit]
全学連委員長の織田と浅田真央って似てるよな、
全学連委員長の織田と浅田真央って似てるよな。
【2010/02/21 21:05】 | #- | [edit]
>「10年20年前の講義ノート」を使って十年一日のごとき「腐った授業」をし
>ています。

君は何学部?法学部だったら「馬鹿まるだし」ってやつだぞ。
【2010/02/21 23:03】 | #- | [edit]
>君は何学部?法学部だったら「馬鹿まるだし」ってやつだぞ。

法学部でも、パンキョーの授業とか、法哲学の授業とかあるだろ
君がバカ丸出しなんじゃない

第三者より
【2010/02/22 08:19】 | #- | [edit]
どう「バカまるだし」なのですか?
よろしければご教示ください。
【2010/02/22 11:54】 | 名無し #mQop/nM. | [edit]
で、中核の暴力は前者ですか、後者ですか?
【2010/02/22 12:10】 | #- | [edit]
当局の暴力を問わずに、為にする中核派批判は見苦しい。
 それよりも、法大当局は、二百数十億円の資金でマネーゲームを行い数十億円の損失を産み出している。「自由で進歩的な」大学の名をもって学生、父兄から毎年一人当たり百数十万を収奪している。一方で法大当局の弾圧、具体的には学内政治活動の禁止、立看・ビラまき許可・検閲制(実質禁止)、学内の闘う学生への暴力を伴う入校チェック、大学当局の秩序維持のための警視庁公安一課と右翼ヤクザガードマンの導入などがあり法大と新自由主義教育を鋭く暴き粉砕する闘い繰り広げいるのが法大文化連盟と全学連です。
 朋ちゃん、他5人の闘う学生の皆さん、獄中闘争頑張ってください!
【2010/02/22 14:30】 | 赤ヘルノンセクト #- | [edit]
法学部の講義で10年、20年前の講義ノートを教授が使っていたらどうなる?例えば商法の講義を考えてみな。腐った講義ってのは、高崎何とか大学の憲法の講義(江橋氏の余談)を言うんだよ。法学部でのパンキョー講義で法律関係の講義・・・法学概論のことかw概論の中味を知っているのか?

それと法哲学を持ち出すところ、君が法政大学の学生ならば阿呆学部出身ってことは判った。口惜しかったら法哲学の学問的意義を、現代社会との関連で考えてみろ。10年、20年前の講義の真髄は今でも生きているんだぞ。今井弘道の市民社会論ぐらい読んでおけ。
【2010/02/23 02:27】 | #- | [edit]
↑形骸化した、「偏差値」教条主義の、自己顕示欲の強い人なのかな?色々ゴチャゴチャ言ってるけど。日本の大学なんか、世界レベルから見れば、下の、そのまたズーッと下の、下下下の下。
 俺は経済学部だよ。
【2010/02/23 03:40】 | #- | [edit]
何が商法だ、何が今井弘道だ、たかが、「象牙の塔」に籠って高給を食むブルジョワ学者だろう。法大の似非学者と同じだ。
 
 今は解放を求めて闘いに立ちあがる全世界の人民に襲いかかっている現実を直視し、これを是とするのか、否かなのか!
 
 幾多の苦難を乗り越えて民族解放のホムラを燃え立たせるパレスチナ、イラク、アフガニスタン、アジア、ラテンアメリカ、ヨーロッパ、アメリカ合衆国の学生の闘いに、連帯・支持・共感を明らかにするのか否なのかである。

 「法哲学の学問的位置付け?」、それは先の投稿者の方の、カール・マルクスの「共産党宣言」の「引用」で応えているだろう。
 
 
【2010/02/23 08:39】 | #- | [edit]
法大もそうだけど、マスプロ授業が多くて、教員にしても、覇気がなくサリーマン化しており、「授業」も「授業」で、無線マイクロフォンを使っているんだろうけど、教室に響かず、ボソボソ淡々と、「己の悦に浸りながら」囁いている。
 学生はと言えば「単位」欲しさに漫然と、「授業の意味」もわからぬままに90分授業が終わるのを待つ。
 これが実態だ!!
 反論には応じない!
【2010/02/23 10:54】 | #- | [edit]
ヒトラーがドイツでやったことはすべて合法だったことを忘れるな
【2010/02/23 21:21】 | #- | [edit]
似非学者ども!カール・マルクスは19世紀には当時の「学者」・「宗教者」のインチキ振りを見抜き以下のように喝破している。
「哲学者たちは世界をさまざまに解釈してきたに過ぎない。だが大切なのは、世界を変革することである」(フォイエルバッハに関するテーゼ)と述べている。
 口先だけの「学者」、「講壇学者」など、社会の発展に一切寄与しないばかりか、むしろ「桎梏物」へ転落している現実を、法大闘争に立脚すれば誰でも喝破できるだろう。
 
【2010/02/24 03:51】 | #- | [edit]
馬鹿ってのは救いようがない。

知は知らないことを知る自分を判ってないな。知る為に法政に入学したんだろ?入学金と初年度授業料は誰が払ったんだ?君自身か?ならば尊敬する。今まで2つ投稿した書き込みは破棄する。

しかし、親が支払ったならば、ブルジョア云々言っている君の視野の狭さ、或いは学問に対する姿勢から馬鹿だと見做す。君の親が君の為に支払った原資を得るための手段は、商法に従った行為からの帰結だからだ。君は人生を見切ったようなことを口にしているが、人生ってのは試行錯誤の連続で、死ぬまで未完成であることを自覚しろ。

見做すと推定するの違いぐらいは知っているよな?
【2010/02/25 01:55】 | #- | [edit]
 ↑ゴチャゴチャ言ってるが、俺が言いたい事は、人間的思考に対象的真理が到来するかは、理論的問題ではなく、実践的な問題であるということ。人間は思考の真理性を実践によって証明しなければならないんだよ。
 
 環境の変革と自己変革の合致は「実践」としてのみ合理的に理解されるんだよ。

 たとえばフォイエルバッハは人間的本質を歴史的経過を無視して、類として
物言わぬ一般として捉えた。人間的本質は社会諸関係の総和で一定の社会形態に属しているだ。

 そして同時にすべての社会的生活は本質的に実践的なのだ。

 マルクスは「哲学者たちは、世界をさまざまに解釈してきたに過ぎない。大切なことは世界を変革することである」
 
 今の似非学者は実践的活動の意義が把握できていない。

 
【2010/02/25 09:27】 | #- | [edit]
 知を愛する、「知は知らない事を知る自分」OK!OK!、言いかえればフィロゾフィー(哲学)。
 哲学は古代のインドとギリシャに生まれ理性を原理とする西洋哲学はキリスト教神学と結び付きカントからヘーゲルへ至るドイツ古典哲学で最後の花を咲かせた。資本主義の黎明期のイデオロギーはドイツ哲学に支配されヘーゲル哲学体系の土台の上で語られていた。ヘーゲル学派の内部批判者として登場した青年ヘーゲル派も、人間とは何であるのか、人間とは何であるべきか、という根本問題において神学の体系に定位するヘーゲル哲学の枠から抜け出せなかった。
 フォイエルバッハが自然を原理に据えてヘーゲルの観念論を覆しえたが、その自然哲学の現実は非歴史的非社会的であり人間も人格として永遠化された人間一般であり「階級社会に生きる時代の意識を持った現実の人間ではなかった。
 そこでマルクスとエンゲルスは「フォイエルバッハの学派」であった過去に総括をつけるべく「経済学・哲学草稿」で獲得した成果の上に立って自然哲学を止揚しうる批判点を確立し普遍的な世界観として史的唯物論を構築した。
 
【2010/02/25 11:38】 | 知は知らないことを知る自分 #- | [edit]
文連の諸君は、ニーチェ的な、力への意志を志向するのかね?それでは、形を変えた新自由主義と同じである。ルサンチマン的な状況の中で、長期大衆抵抗路線で耐えている労働者を、力で切り捨てるのか。暴力革命を標榜する走狗集団とは、さっさと決別し、現実を括目せよ!
【2010/02/27 01:09】 | 劣等労働者 #- | [edit]
 スターリンは史的唯物論の原理を物質的財貨の生産へ歪曲した。そして同時に革共同革マル派の指導者・故黒田寛一氏(山本勝彦)は史的唯物論の始原を生活手段の生産と人間の生産へ矮小化した。
 生産手段の共同体的所有の分裂が共同体的協働を分裂させ搾取階級と被搾取階級の対立、生産力の生産関係の対立を成立させた原因である。階級社会の分裂した協働が奴隷、農奴、賃労働として搾取される協働様式を取りつつ生産力を発展させ生産関係との矛盾を拡大して階級闘争を引き起こし共産主義の思想と運動を呼び起こし共産主義革命によって共同体的協働へ再転化される。
【2010/02/27 13:43】 | #- | [edit]












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Author:文化連盟
1959年創立の法政大学サークル連合。2008年3月に非公認化。活動理念は「自主文化創造」。本業のサークル活動に邁進しつつ、2006年3月14日以来延べ126名の逮捕者、34名の起訴者と13名の処分者を擁する監獄大学爆砕へと学生運動も同時並行。直接行動系。ゆとり世代代表。愛は強し。

2012年5月31日、東大ポポロ座に続き暴処法を粉砕し無罪を勝ち取る。もはや敵なし。俺たち最強。

法大闘争とは何か?


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