①革命と暴力
2010-12-17

諸君!! 「革命」とはなんであろうか!?
プロレタリア革命とは、いったい何を変革することを目指しているのだろうか?
簡潔に言おう! 革命とは、権力をとることではない!!
しかし早まるな! 誤解してはならない! 権力はとらなければならない。それなしにはプロレタリア革命は現実的には不可能であるからだ。
だからこそ、今私が言った「革命=権力をとることではない」の意味についてその核心を語らなければならない。
共産主義社会、つまりすべての人民による経済の計画的統制に基づく社会が可能だという根拠は、今、この瞬間、世界を動かしているのは労働者である、ということだ!
諸君、考えてみたまえ。社長が首をたてにふったからその会社は動いているのか? 断じて違うだろう!? 今この瞬間世界を動かしているのはそこらへんの吉野屋や居酒屋で食事をとったり酒を飲んだりしている無数の労働者たちであり、俗な言い方をすれば庶民たちである。
だからこそ、彼らが社長や理事会=資本家をぶっとばし、普段彼らが働いている自らの職場を、普段働いているからこそ、団結し、協力しあえば自らで運営することができるということ、彼らがそういう力を本質的に持っているということが、共産主義社会が可能であることの根拠なのである。だからマルクスは、そのように運営される社会を「共に生産する社会」と名付けたのだ。それ以上でも以下でもない!
しかしながら、じゃあ実際にそれをやる力を労働者大衆はもっているのか、ということに誰でもたどりつくだろう。
ここが問題である! そうだ、その通りだ! 労働者大衆はそんな力を持っていない! それは現状、まぎれもない事実である。いきなり資本家が、支配者がいなくなったら社会は悲惨なことに陥ることは確実である。今いきなり警察がいなくなったら治安がどうなるか考えてみたまえ、諸君!
では、どうするか? 簡単だ。労働者がそのような力を持てばいいのである。
労働者が自らの理論を持ち、自らで職場のルールを作成し、自らで責任を持ってそのルールを守ることができるようになればいいのである。労働者大衆が選挙のような「非日常=政治」ではなく、「日常=政治」となるような生活を創りあげればいいのである。簡単に言おう! 労働者大衆が、すべての人民が政治を取り戻すこと、それが「革命」なのである!
次に問題になるのは、ではどうやって労働者がそれを学ぶのか、ということである。労働者は、様々な要因から、資本の抑圧、理不尽に対して闘いを開始する。個人では勝てないから、団結し、労働組合を作って闘う。これだ! これが、マルクスが労働組合を「社会主義の学校」と位置づけた理由である。労働者は、労働組合運動に携わる中で、政治を学ぶ。自らの力でルールを作り、それを資本に強制し、そのルールを自ら責任を持って守ること、日常の経験の中から、自らの指導者を選ぶこと、課長や部長などの管理職がいなくとも、自ら選んだ指導者の下で職場を合理的に運営することを学ぶ。
ひとつの例として、ストライキをとってみよう。ストライキはサボタージュと違う。それは意識的に職場を止め、終結のさいには、意識的に職場を動かすことができなければならない。つまり、管理職なしで、労働者がみずから職場を運営することをその闘争の過程で労働者が学ぶのである! このような運動の結果として、社会のすべての人々が資本家なしで社会を運営できるようになること、その全過程が「革命」なのだ! 革命はある日突然起きはしない! 革命は奇跡ではない。革命は人類自身の、自らの変革運動全体のことであり、それに至る過程のことである! 動労千葉は、かつてもっと勢力があったころに、「外房線はJRよりおれたちのほうがうまく動かせる」と宣言したことがあるが、これは日常の闘争や数十回のストライキのすえに獲得したものなのである。彼らのような労働組合、労働者が社会の常識になることが革命なのである!
さて、ここで問題になることがある。実際に労働者が職場を自らで運営するような事態になったとしよう。こうなると不都合な状態を強制される者がいる。そうだ、資本家だ! だから彼らは言う! 「私の所有している会社が労働者に占拠されている! これは私的所有権の侵害だ!」と。そして法律という暴力を執行するために警察がやってくる。労働者は殴られ、逮捕され、場合によっては殺される。歴史上このようなことは何度もあった。有名なのはパリ・コミューンだが、卑近な例でいえば、2008年の京品ホテルの闘争について調べてみるといいだろう。
ゆえに! だからこそ! 労働者は権力をとらなければならない! 労働者の利益を体現する党を創り、自らを階級として組織し、現在の国家を転覆する準備をしなければならないのである! 暴力を準備する以外に、権力をとること、そしてそれを維持することは不可能である。資本家が労働者をブルジョア法=私的所有を擁護するための法律で労働者を抑圧したように、労働者権力はプロレタリア法=私的所有を廃止するための法律で資本家を弾圧しなければならないのだ! これがプロレタリア国家の役目である!
暴力とは、強制力一般のことであり、それには法律も含まれるのだ! 権力をとること自体は、例外的ではあるが(※)、議会で多数をとることによっても可能である。しかしそれを維持し、革命を完遂するために、資本家を抑圧するための法律を通し、実行するためには、労働者が圧倒的に動労千葉のように闘う戦闘性を持っている状況である必要があるのだ!
マルクスは言った! 「暴力は革命の助産婦である」と。その通りだ! 暴力は革命の助産婦であり、それにすぎない! 革命を生むのは暴力ではなく、労働者階級であり、人民である! 資本との闘争の中で必要とされ、生まれる団結こそが新たな常識となり、社会を変えるのであって、暴力が社会を変えるのではない! 暴れることで社会は変わらない! 資本家を殺すことで社会が変わるわけではないし、警察を殺すことで社会は変わりはしない!
革命と暴力の関係を幼稚に解釈し、暴力を単なる軍事力と勘違いすると、連合赤軍のあさま山荘事件のような間違いを起こすのだ! まあ、彼らの路線については我々なりの意見があるが、ここではそういうことにしておこう。
諸君、今回のまとめだ!
①革命=人間自身が政治を取り戻し、奪われた共同性を取り戻していく過程
②暴力はその助産婦にすぎない。必要なものだが、それが社会を変えるのではない
「労働者はときどき勝利することがある。しかし、その勝利は一時的なものにすぎない。労働者の闘争のほんとうの成果は、直接の成功にあるのではなくて、労働者の団結がますます広がっていくことにあるのだ」
マルクス『共産党宣言』
団結の究極の拡大こそ、革命なのである!!
※1917年6月ごろ、レーニンは当時のロシア二月革命後の労働運動・農民運動の高揚を背景にして、憲法制定議会選挙でボリシェビキが多数派をとることによっても革命ができると考えていた。コルニーロフの反乱によってそれが不可能な情勢となり、当初のプランであった武装蜂起で10月革命へと向かった。
今回の重要文献
マルクス『共産党宣言』
おまけ:社研の会話
「我々は、圧倒的戦闘的に革命闘争を貫徹し、支配階級の暴虐を打ち砕き、プロレタリア世界革命への道を開かなければならない!!」
「第一に、圧倒的戦闘的であることが革命的とは限らない。第二に、支配階級とは誰か? 暴虐とは何か? 暴力を使うことは我々だってある。第三に、世界革命への道を開くために現在具体的に何をなすべきかを言うべきだ。つまり君は何も言っていない。強い言葉に酔うな小僧」
「ごめんなさい」