なんとなくフォトグラファー6(早朝の浅草寺篇)

 2011-01-17
浅草寺本堂。



宝蔵門。



五重塔。



倉岡追加処分阻止と世界平和を祈願。
コメント


 【 天皇の正体は大陸から渡来したツングース系遊牧民だ!!】

 北海道と琉球を除いて全国(本州、四国、九州)を制覇していった大和政権つまり「天皇家」の出自が朝鮮半島から渡ってきた騎馬民族である。
 これを認めたら天皇家の出自が白日の下にさらされ皇国史観の屋台骨が崩れ幻想が吹き飛んでしまうので、皇国史観を偽装し護持しようとする御用学者が猛反発している。
 しかし大陸の草原地帯から中国東北部を経て朝鮮半島を南下し高句麗や新羅や百済や伽耶を創設した騎馬民族が九州北部に渡って拠点を作り更に東進して畿内の諸豪族を支配下に置き全国制覇を目指して樹立した政治権力こそ大和政権であり故に天皇の血の原点はツングース系遊牧民である!!
 古墳の副葬品こそ騎馬民族の物証である!宮内庁は天皇家の古墳の科学的解明を拒否している!!
【2011/01/17 14:11】 | 赤ヘル #- | [edit]
その最も確かな根拠は何かと言うと、古墳から発掘される副葬品の大きな変化である。詳述すると古墳時代のある時期から副葬品の中から騎馬民族だけしか使用しない鉄製の騎馬戦用の武器や馬具が突如として大量にあらわれ同時に日本列島では未だ製造出来なかった灰色の硬質土器「通称、新羅土器・須恵器」の祭器が大量に発掘されるようになったことである。
 端的な問題はこの副葬品の性格の急激な変化を如何に分析し理解するかにある。
 この埋葬品の性格の激変に明白なる回答を出したのが故・江上波夫東京大学教授である!
 つまり江上波夫先生は、ある時期を境にして古墳から出土する副葬品の性格に大きな質的な変化が見られるようになったのは古墳に埋葬される権力者の性格が一変したからである、という解釈を下した。
 つまり騎馬戦闘だけに使用する馬の鉄面や独特の槍や剣があれほど大量に出土するということは埋葬される権力者が鋼鉄を製造する生産力をもち騎馬を自由に駆使して戦闘する能力をもった生活集団の長(おさ)であると明快に分析された。
【2011/01/17 21:11】 | 赤ヘル #- | [edit]
こちらのホームページも、どこかの党学校通信と同じように、編集方針変わったのかな?ワンワン!
【2011/01/17 22:03】 | 劣等労働者 #- | [edit]
「 新左翼の鼻つまみ者」の革マル派は反天皇闘争をアナクロニズムと評していたな。
 
【2011/01/18 04:12】 | 赤ヘル #- | [edit]
革マルの茶々入れは無視して続けよう!!
 同時に頭から足の先まで全身をキンキラキンの黄金細工で装う埋葬品は金を体一杯身につけて移動する騎馬民族に固有の生活文化を象徴的に示すものであり農耕定着民の生活習慣にはないものであることをも明快に解明した。
 従って江上波夫先生は騎馬民族的副葬品の出土を分岐点として古墳時代を前期と後期に二分したが御用、官制の「考古学会」は前・中・後の三期区分説を採用し埋葬品の変化を中期以降と認めながらも変化の原因を朝鮮半島からの輸入によるものと断定し黄金や鉄器や馬具や硬質土器を生産して使用する生活集団の渡来を絶対に認めないのである。
 後期(定説では中期)以降の古墳から続々と出土する副葬品の数々を朝鮮半島から渡来して畿内を制圧した集団の携帯かつ生産したものであると認めてしまえば「天皇こそ民族の血を純粋に継承する大和民族の本家であり大和朝廷こそ『日本民族』の生んだ国家の始祖」という皇国史観が根底から崩れるからである。  
【2011/01/18 08:56】 | 赤ヘル #- | [edit]
本当に、物証という事実は何よりも強く皇国史観を護持しようとする側の反論はことごとく次々と論破され完敗していった。
 一つが鋼鉄生産論争である。確かに弥生時代にも砂鉄を小さなルツボで溶かし鉄製農具を造っており前期古墳からも少数の鉄剣は出土していたが鉄がタタラ製法で組織的に大量生産されるようになったのは後期古墳時代なのである。事実は日本列島よりも遥かに早くから良質の鋼鉄を生産していた朝鮮半島南部のテクノクラートたちが大量の鉄剣と騎馬で武装した集団とともに渡来して組織的なタタラ製法で生産を始めたのである。
 二つは須恵器論争である。ロクロ成形と千ニ百度の火力で穴窯焼成される硬質土器は既に新羅や百済で生産され古墳に副葬されていた。
 後期古墳からの硬質土器の突如とした大量出土を皇国史観側の御用学者は朝鮮半島から生産技術が導入された結果だと強弁している。
 しかしドロを固めて成形し地上に積んで枯木や藁をかぶせて焼き芋を焼くようにして造る弥生土器しか生産できない人々が言葉だけでロクロや築窯や焼成の技術を修得できるわけがないのであるから突然の大量出土に見合う陶工の大量渡来を承認せざるを得なくなるのである。
【2011/01/18 09:53】 | 赤ヘル #- | [edit]
三つは、前方後円墳論争である。皇国史観の御用学者が噛みついて最後にしがみついた主張が、朝鮮半島に前方後円墳がないという主張であった。つまり前方後円という古墳形式は大和民族固有の形式であり騎馬民族が大和民族の上に君臨したのなら前方後円墳は採らないはずだと主張してきた。
 ところが『1984年に前方後円墳が韓国で発見され』森浩一・同志社大学教授らの考古学者も現地を調査して確認された。と同時に韓国の学者も機内で発展し大型化していった前方後円墳の原形であるという見解を明らかにした。
 これを受けて皇国史観の御用学者は決定的なダメージを受け完敗し沈黙した。残る抵抗勢力は「宮内庁」、「神社本庁」、「天皇主義ファシスト」のみである!!
【2011/01/18 11:13】 | 赤ヘル #- | [edit]
騎馬民族征服王朝を基本的に裏付けるものに古事記と日本書紀の思想がある。
 古事記と日本書紀は蘇我一族から奪権に成功した天武天皇が権力の世襲制を定め国家権力のデザインを固めるために捏造した神話としての『正史』であった。
 だがしかしこの「作文」も騎馬民族に固有な信仰が貫かれざるを得なかった。つまり天孫降臨神話にみられる遊牧民の上天神信仰である。天の神が陸地の高い山や木に舞い降りるという神話形式は西域、蒙古、朝鮮にも共通している。
 遊牧民にとって大草原の上に広がる天空は神そのものであり神なる天の声をシャーマンの呪文で聞き天の命令の代行者として地上の政治権力が決定された。やがて俗なる地上の権力者は聖なる天上の神の化身と称し天より降臨せる神にして人間、人にして神様なる独裁者となった。
 天孫降臨神話に依拠して天皇を現人神と位置付ける記紀神話の基本思想こそ「遊牧騎馬民族の上天神信仰」そのものである。
 記紀神話は騎馬民族の天孫降臨と現人神の基本思想に先住の縄文人や弥生人の信仰を結合させ大和の支配的イデオロギーになったのである!!

 
【2011/01/18 11:51】 | 赤ヘル #- | [edit]
>こちらのホームページも、どこかの党学校通信と同じように、編集方針変わったのかな?ワンワン!

劣等労働者さんよ、中核派の連中も大概だけど、
アンタの書き込みも本当に面白くなくてクソな内容だな。
書いている本人は面白いと思っているのかもしれないけど。

いろんな場所で書き汚しているけど、
本当につまらないから金輪際登場しないでね。
【2011/01/18 13:04】 | 宇宙の祭典 #- | [edit]
>アンタの書き込みも本当に面白くなくてクソな内容だな。
私もかねがねコレ(コイツ)だけは別格だと思っていました。
率直に面白くない、というだけでは済まない何か(重大な欠陥)があると。
つまらなさが異様…。一事が万事、他の書き捨てとナニが違うんだろう?
【2011/01/18 15:37】 | 一日の半分は薄笑い、半分は卑屈な労働者 #- | [edit]
古代大和政権が畿内と呼ばれる弥生時代最大の水稲耕作地帯を基盤として成立したことは騎馬民族征服王朝の立場に立つ者も皇国史観の立場に立つ者も共通に認めている。
 問題は大和政権を畿内の地方豪族政権が騎馬民族に征服と同時に吸収された権力と見るにせよ畿内の「弥生人の小規模な集落国家」が連合し自己拡大した豪族のの権力と見るにせよ列島最大の稲作地帯を形成した畿内の弥生人が果たして縄文人と直結する人たちなのか、それとも渡来の韓族に制圧され混血した人たちなのか、という点にあると思う。皆さんは、どう考えるか。
【2011/01/21 12:43】 | #- | [edit]

     稲作は朝鮮半島南部から九州北部に来た
 
 稲作が縄文晩期に大陸から伝搬した点に関しては皇国史観側も認めている。渡来の道に関しては中国の江南地方から九州北部に渡ったとする直接説をとり
しかも稲作技術だけが導入されたとする説に固執し渡来人の影響を打ち消そうと必死になっている。
 しかし稲作が中国の江南から山東半島へ北上して朝鮮半島の中部西岸に渡りそこから九州北部へ渡ってきたという間接説は考古学的にも有力となり、この点に関しては騎馬民族王朝論を否定する学者も肯定せざるを得ないのが今の現状である。
【2011/01/21 14:26】 | 赤ヘル #- | [edit]
1951年から4年にわたる福岡市の板村遺跡の発掘で縄文晩期の夜臼(ゆうす)式と弥生初期の板村Ⅰ式の土器が共存し両土器から籾圧痕と炭化米が検出され排水や灌漑の設備をもつ水田が発見されて日本列島での水稲耕作が初めて実証された。
 1978年の発掘では夜臼式と板村式の共伴層の下層に更に古い夜臼式土器の単純層が存在しそこに水田が発見され縄文晩期に水稲耕作集団が渡来して旧来の夜臼式土器を利用しながら水田を形成したことが実証された。
 そしてその後佐賀県丸山遺跡と福岡県糸島郡の曲田(まがりだ)遺跡でも夜臼式単層から朝鮮半島と同種の石庖丁や有柄式石剣が発見された。
【2011/01/22 11:57】 | 赤ヘル #- | [edit]
1980~81年に発見された唐津の菜畑(なばたけ)遺跡は夜臼式単純層から縄文の伝統を引く山ノ寺式土器と朝鮮の無文土器に似た磨研土器と新しく朝鮮からきた石器と炭化米を出し稲作の開始を100年ほど早めると同時に朝鮮からの稲作集団の渡来をあらためて実証した。
 岡崎敬・九州大学教授は「縄文晩期から弥生の初期という時期に限って石器の系統からいえば明らかに朝鮮の型式である。米はいったん朝鮮に入ってそこから更に渡ってきた」「朝鮮では現在、金海貝塚、、、ソウル近郊の欣岩里、、、扶余の松菊里などからも短粒の米が出ている」と言う。
 森貞次郎・九州産業大学・教授は「汲田貝塚の最下層の夜臼単純層から抉(えぐり)入石斧の破片が出ています、、、これが南朝鮮から北という最も確実な決め手だろう」と言われている。
【2011/01/22 12:18】 | 赤ヘル #- | [edit]
福岡市立歴史資料館では「弥生時代のコメは幅を一とした時の長さが一・六~一・九程の短粒形である。古い朝鮮のコメも短粒形である。中国の古いコメは短粒形と長粒形の両方がある。こうしたコメの形態や考古学資料から稲作文化は中国の長江下流域から直接日本に伝わったのではなく朝鮮南部からある程度の人間が渡って来て伝えられたと考えられる」という見解を公表している。
 以上の論点で畿内の稲作地帯の核が縄文晩期から渡来して西日本に移住してきた韓族であることを証明した。
 で後続の韓族と渡来二世と混血の主導権の下に在来の縄文人を制圧、包含して弥生時代最大の稲作地帯を形成し大和地方の豪族連合政権の物質的基盤を築いた。
 今回は弥生人の解明を切っ先に天皇主義ファシスト者に止めを刺した。
 天皇ファシストども反論してこい!!
【2011/01/22 12:45】 | 赤ヘル #- | [edit]
 「縄文時代から弥生時代への社会変革に直接契機を与えたのは稲作中心の農業と鉄、青銅の金属器を主要な内容とする外来文化であった。この新しい文化をもった相当数の渡来者が北九州沿岸部をはじめ海路をたどって西日本各地へ到達し新しい時代の第一歩が踏み出された」(京都市埋蔵文化財研究所調査部長・田辺昭三先生)
 紀元前300年頃に始まった稲作が河内平野に伝搬し尾張平野でいったん停止するのが紀元前200年頃と推定されている。そして次に東進の始まるのが100年後の紀元前100年からである。
 ここで「縄文時代を終焉させた要因は南朝鮮からの渡来者によって伝えられた水稲耕作の開始であった。しかし最初の水稲耕作の一時的広がりの範囲を示す遠賀川(おんががわ)式土器の分布圏が南九州から東海地方西半にわたって急速に形成されたのは何故なのか?(春成秀薾・岡山大学教授)という疑問が出される。
 概して一つには中央に脊梁山脈が走る東と瀬戸内海のある西を対比する地勢論、二つに真夏日の四十日を指標とする気候条件、三つに西日本に初期農耕が存在したという縄文晩期農耕論などで説明される。
【2011/01/22 15:01】 | 赤ヘル #- | [edit]
しかし同時に私は、縄文晩期から朝鮮南部の韓族が九州北部に定着していただけではなく西日本へ移住していったことが当時としては驚異的な波及速度で尾張平野まで稲作が拡大できた主要因と考える。
 北部九州に縄文文化から弥生の中期まで存在するドルメン(支石墓)は韓族の定着を実証する決め手である。この支石墓は朝鮮独自の形式である。墓制は本来保守的で、このような生活文化をもつ人間以外決して造らぬものである。
 金関丈夫・九州大学教授が佐賀県三津と山口県土井ヶ浜の弥生遺跡で発掘した百数十体の人骨は平均身長で縄文人よりも30センチも高く土井ヶ浜では脊の高い韓族の形質を呈する男性人骨と縄文文化の伝統を引く抜歯を施された女性人骨との共存も検出された。
 島根県古浦、大阪国府、名古屋見殻山の弥生遺跡から南朝鮮出自と推定される長身の人骨が発掘されている。
 「大阪府四ッ池遺跡の船橋式土器に明確な籾痕が付着し縄文時代晩期に畿内地域においても水稲農耕が開始され始めていたことが判る」(大阪文化財調査部長・酒井龍一先生)
【2011/01/22 15:36】 | 赤ヘル #- | [edit]
稲作の開始は原始共同体社会の最終段階にある縄文時代に止めを刺し階級社会を産む生産関係の変革であるが故に決して平和的な伝搬でも導入でもなかった。尾張の一旦停止は東国縄文人の激しい根強い抵抗の証であった。
 以上、弥生人の解明を通して皇国史観、天皇主義ファシストを粉砕した。
【2011/01/22 17:26】 | 赤ヘル #- | [edit]
『赤ヘル』って、正体は元ブント関西地区委員会『烽火』派か、元赤軍派「崩れ」だろう!
【2011/01/22 18:20】 | 元戦旗派 #- | [edit]
 戦旗派といっても、どちらの戦旗派ですか?
 革マル派の自己絶対化と、他党派解体の論理に革共同(中核派)の血債の思想を接ぎ木した戦旗(日向派)ですか?それとも戦旗(日向派)と戦闘的に決別したボナパ権力論と血債論で路線を確定した「ミニ中核」の戦旗派(西田派)現「統一委員会派」ですか?それとも、北海道戦旗かな、松原グループ?
【2011/01/23 10:36】 | 赤ヘル #- | [edit]
中核派は、かっては「全学連」・(清算して無いが)「反戦」の三里塚や街頭の実力闘争を自覚の場所としていたが、今は「動労千葉」を「自覚の場所」としている。
 革共同は即自的な基幹労働者に、「プロレタリア的人間の論理」を「運動の場所」において自覚させその自覚で党組織を建設させ知的エリート集団として「党」を絶対化させ「党独裁」を展望してきた。また産業資本の法則から導き出された「労働者本隊論」に依拠する黒田・革マル派がそれを純粋培養した典型であった。
【2011/01/23 13:40】 | #- | [edit]
 ペンネーム「早見慶子」女史がいた日向戦旗派は、破防法発動に伴う第二次ブントの分解過程で『カメレオン』的本質を露呈して「左」から右へと厚顔無恥に変身し「第二期武装闘争の時代」には「革マル派」や「ブント情況派」らの「軍事反対派」の急先鋒に位置して合法主義へ退却しブント赤軍派や日本共産党(革命左派)、ブント(RG派)、ブント(神奈川左派)、ブント(蜂起左派)ら武闘派が爆取の集中砲火弾圧を浴びている間隙をぬって合法的大衆運動主義で延命した。革マル派の「党組織絶対主義」を密輸入した日向戦旗派はその時々の組織利害の都合で右へ「左」へと変身する「カメレオン的体質」を党組織思想の本質としていた。従って三里塚では第4インターやプロ青同とともに自分の大衆運動基盤を創りだすために三里塚ニ期決戦の重圧に耐えきれなくなった三里塚農民を籠絡、誘って三里塚反対同盟を分裂させた。
【2011/01/24 13:56】 | #- | [edit]
国家権力は一度爆弾闘争に手を染めた党派に対しては、決して見逃すことは無く爆弾闘争が連続して二度とできなくなるところまで組織壊滅作戦を執拗に繰り返し追い込む事を決して忘れてはならない。
【2011/01/25 14:23】 | #- | [edit]
第二次ブント歴史に関して
 1969年「4・28」破防法攻撃に結党以来の運動の党として統一戦線的組織体質を突かれ第二ブントは「7・6事件」を引き起こし、さらぎ徳ニ議長を国家権力に奪われ実質的分裂の時代を迎えた。
 第二次ブントは基本的には「自己と権力の思想」に根差す運動の党としての統一戦線的組織体質が破防法攻撃に象徴される70年安保の先行性ファシズム攻撃の重圧に耐えられなかった結果としての分裂であり基本的には「共産主義と軍事」を巡る対立、つまり如何なる共産主義で如何なる軍事を組織するのかという綱領的立脚点と軍事路線を巡る分裂であった。
 第9回大会を媒介とする第二ブントと分裂過程は、一つは毛沢東思想に傾斜して大衆運動の延長上に突撃党を追求する赤軍派と、戦略そのものを否定して「思想と運動」を語り全共闘運動の延長上に8派統一戦線の共同体を追求する叛旗・情況派と第二次ブントの革命戦略を堅持しつつ非合法党と正規軍を組織して公然闘争と非公然闘争を押し進めんとする『連合戦旗派』の三系統に大きく識別されていた。
【2011/01/25 15:15】 | #- | [edit]
10月~11月の安保決戦で軍事反対派の正体をさらけ出したブント「連合戦旗」内「日向派ブロック」は「革マル派の黒田理論」と「宇野経済学」を自己流に折衷してブントに持ちこまんとしたためブント「連合戦旗」は日向派と決別し12・18ブントを結成した。
 だが赤軍派、日本共産党(革命左派)に引きつけられた赤報派が12・18ブント(関西派)から分裂し8派統一戦線に引きつけられた烽火派がブント(関西派)から衣替えした。
【2011/01/25 15:37】 | #- | [edit]












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Author:文化連盟
1959年創立の法政大学サークル連合。2008年3月に非公認化。活動理念は「自主文化創造」。本業のサークル活動に邁進しつつ、2006年3月14日以来延べ126名の逮捕者、34名の起訴者と13名の処分者を擁する監獄大学爆砕へと学生運動も同時並行。直接行動系。ゆとり世代代表。愛は強し。

2012年5月31日、東大ポポロ座に続き暴処法を粉砕し無罪を勝ち取る。もはや敵なし。俺たち最強。

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