つれづれなること(終)
2011-09-13
ちっす。齋藤です。タイトルにあるとおり、今回で「つれづれ~」は終わりにしようと思います。理由は単純で、もう必要なくなったからです。2008年~2009年の文連ブログは今からすれば、大荒れで(あっちのほうが好きだけど)、それゆえに一定の思想性をはっきりさせようということで委員長こと私、齋藤がそれなりにまじめそうな駄文を書きつづったのがこのコーナー(?)の始まりでした。08文連決起から3年半が経ち、ブログの内容もかなり絞りあげられてきましたので、もはやこの企画は意義がないと判断しました。むしろこの部分から見た人はこのブログが何をメインにしているのかわかりづらいと思いますし。まあ、何かのひょうしにまた始めるかもしれませんが、とりあえずシリーズ的な感じにするのは終わりです。
なので(?)もう文体も肩ひじ張らずに、正論ぽいことをガツガツぶつけるちょっとエラそうな雰囲気はやめてこんな感じでいきます。
今から読み返してみると、この企画はおもしろいものになりましたね。一人の「民主主義的良心派」が法大闘争の弾圧の鉄火の中で、どのように思想を変化させたのかがなんとなくわかるものになったんではないかと思います。まあ、個人的なことなので皆さん的にはどうでもいいですね。すいません。
さて、本題です。最後の主題はいろいろ考えたのですが、「客観性と主観性について」ですかね。たぶんこの主題を切り口にするだけで、結論はどうなるか自分でもよくわかりません。なんかいろいろと渦巻いているので。
よく言われることですが、「物事は客観的にみなさい」とか同じ意味で「中立的な立場で評価しなさい」なんて言われること、あると思います。
さて、では「客観」とはなんでしょうか? 私たちの目の前にあるのは常に物理的な事実だけです。その世界に色付けしているのは人間です。だから、「正義」も「悪」も、その言葉だけでは何も表さないし、それゆえに、たいてい単なる思考停止を意味しているときすらある言葉です。
それゆえに、いわゆる「社会」(これまたこの言葉だけでは何も意味していません)を分析したりするときには、社会を「客観的」な事実の羅列と見るのではなく、「多くの主観の複合体」、つまり「異なる立場の人間集団間がぶつかりあう場」と見ることが重要な要素になります。このことを理解し、自分がどの立場にいるのか+分析する対象がどんな立場にいるのか、を把握せずに社会、特にその社会状態に適合したイデオロギーである上部構造=「政治」を分析しようとすると、結局、客観的にモノゴトを見ているようで、その実は非常に主観的に「自分が理解できる人間しかいない世界」を妄想して、その妄想の中で社会を云々するハメに陥ります。別に名称などどうでもいいですが、「客観性の落とし穴」とでも呼びましょうか。
非常に難しいことを言いました。ちゃんと説明できたか自信がありませんが、とにかく実践的な話に移ればどういうことかというと、「言葉は道具にすぎず、常に問題なのは内容だ」ということです。
たとえば、「日本民族は外国の脅威に対して団結して闘わなければならない!」という言葉があります。この言葉は明治維新のときなら帝国主義列強に対抗して闘うことを意味しており、「支配に対する抵抗の意志」がその内容です。文化連盟はこれを断固として支持します。
しかし、それから100年後の現在、多くの国に資本を輸出し、弱小国を経済的・金融的に縛って搾取している現在の日本国家ではこの同じ言葉は、凋落する日本経済の巻き返しを図る「支配へのあくなき意志」の表明にほかなりません。文化連盟はこれを断固として支持しません。
ある人間が何を言っているかは、その人間が何に依拠しているか、および何を社会が成り立つ前提にしているかによって決まります。オバマ大統領のプラハでの「核廃絶」の演説は、アメリカ大統領という彼の立場からすれば、当時から新たな情勢における核戦略の見直ししか意味しないことは明らかでした。オバマ自身が学生時代に「人類を絶滅させるかもしれない核というものによって平和が成り立つのはおかしい」という趣旨の論文を書いているとしても、そこに彼の意志は関係ありません。彼の言葉が本気だとして、彼が自分の信念に依拠しているなら、アメリカ大統領にはなっていないでしょう。なぜそうなのかの説明はここでは省きますが、そういうことです。
もちろん、人間はみずからの依拠するものが何かを認識し、その立場性を自ら批判することによって自分がどうありたいかを決めることができます。目の前の状態を無批判に肯定して「仕方ない」と言わないこと。それが人間の知性です。戦争は、数千万の人間の命とひきかえに莫大な需要をつくりだし、経済を救いますが、だからといって戦争を「仕方ない」とする人はほとんどいないでしょう。
人間は変わることができます。「革命家」と呼ばれる人の多くはブルジョア出身ですが、彼らは目の前の社会を検討しその現実を拒否しようと決意したことによって、プロレタリアに依拠してブルジョアと闘争を始めたように、それは人間の可能性です。
では、私の立場は何かと問われれば、私は「一人の仲間も見捨てない」法政大学文化連盟委員長であり、「反帝・反スタプロレタリア世界革命を目指す」中核派系全学連委員長であり、その依拠するところはこの世界の未来を決める学生という社会階層および労働者階級です。
さて、立場性の話から右翼思想の本質は奴隷思想(「電気が高い」と言って国をでていく資本家は売国奴なんじゃないんですかー? てか家族愛とか故郷愛とか原発推進しといて何いってんのw ※民族派除く)だとか、ネグリ批判(自分が労働運動に敗北したからといって、労働運動に市民運動をぶつけて民衆の団結を破壊するのはやめていただきたい)だとかも入れようと思ったんですが、イスラエルの労働運動がついに、本来持っていた宗教と民族をのりこえる可能性を発揮し始めたこととか、それに関連して「アラブの春」とか語りだすと、5万字くらいいきそうなのでここらへんでやめたいと思います。
最後に。記述は正確ではないと思いますが、ウィキリークスで有名なアサンジ氏はこういう趣旨の言葉を発しています。
「交通事故で死んだ人間と戦争で死んだ人間を同列に扱うことは愚かだ。その中立性には人間性が存在しないから」
人間は奴隷でもなければ商品でもありません。私は、人間がそう扱われることを容認する客観性・中立性を捨て去るべきだと考えます。