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哲学研究会アピール

 2008-06-26
<<哲学研究会について>>

「哲学」は、人の世の流れに極めてアンチテーゼを掲げ、ただひとつ「己との対峙なのである」と考えます。
己との対峙の中に生じる一抹の疑問符が時折「被差別」を、「抗議」を伴うことが、これまでにはありました。

非公認というのは、ひとえに「危険サークル」と大学当局に目視されているところにあります。
具体的には、会員の中に中核派の活動家が存在することに起因するのです。
しかしそれらは、哲学研究会という組織の全容ではなく、その各会員の一端です。
しかし、だからといって「彼らは私とは違う」というわけではありません。
彼らも例えば私も「哲学研究会の一味」であることに変わりは無く、いってしまえば、私が何か学校に対し譲れない疑問符を抱いたのならば、彼らとは違うやりかたで、或いは彼らより過激に、展開するかもしれません。
「学校に対して疑問符を持つこと」は「学内政治」という、学校からしてみれば『煙たがられる』存在になります。
「果たしてそれは哲学の域を超えているのではないか」、或いは「学生としての本分を違えているのではないのか」。
それは個々人、賛否両論だと思います。
しかし、考え至った経緯そのものが私は「哲学である」と私は考えます。
哲学はもとより何にでもその姿を変容させてゆきます。
哲学は人間の意志の塊です。つまるところ「なんでもあり」なのです。
極めて生産性のない分野として「哲学」はあります。
しかし、西洋アリストテレスの哲学をキリスト教が「利用しながら」スコラ学を展開されていく経緯、或いは寺山修司がサルトルに感化し作品を発表されたように、哲学の持つ崇高さも容姿も様々なのです。そして私たちはそれらを「自己に省みた時」、学内政治を、そして私はこうして、学生の内に在る思慮を哲学と括り、学生の同人誌展開に力を注いでいる今日であります。
ですから「哲学研究会に入る」ことは、ある種のサークルという括りを手にすることには変わりなく、それぞれの人間同士の交流こそ(希薄ながら)あります。
しかし結局的に「そしてお前は何をする」という命題を突きつけられ、逃げられない個人の思慮を誰と無く、自らの中に内在せし「問題提起への解決」を、自らによって「求められる」ことになるでしょう。
それは寂しい部分もあり、しかし翻れば、同じように苦悩する人間の姿を直に触れることのできる環境であるともいえます。
同士である前に同胞なのではないかと、私は考えます。
何か同じ信念を持つものとして会話を交わしながらも、心根の意志は個人に委ねられ違えていている。
それが当会のスタンスであると云えるでしょう。
疑問符も無く、躓きも無く、ここまでやってきた人間はいないでしょう。
大学に入学し、漸く安寧を覚えた人間も少なくないと思います。
「哲学研究会」に加われば、そこで今一度、顔面から大きな石に躓くことを余儀なくされます。
しかしそれは『青春の最後のステージにおいての最後の派手な顔面強打』になるのかも
しれません。
しかも傷みに涙こそすれ、そこでまた『思慮する』ことも求められます。



<<文化連盟所属サークルとして>>

当会は、それの掲げる「自主文化創造」に於いては、当会は<希哲学>による『学生による文筆系同人誌発行』を試みております。
それは、例えば世論研究会が追い求める「事実への探求」に対し、「内在する己への探求と発露」というところです。
興味深いのは、この2サークルは極めて親睦の深い間柄でありながら、その性質が全く異なっているところにあります。
しかしどちらも「疑問符」という共通点で繋がっているのです。

そして当会もまた、その各会員の活動の主体は「会員の自主性」に委ねられています。
希哲学に寄稿したいものは寄稿をする、学習会を開催したくば企画をする、といったように。
拭い去れない政治性が当会にあるのは、寄稿・学習会開催とは多方面に展開されています。
しかしその「多方面的な活動」を受け入れている現在は、当会の方針「言論・思想の自由」へ根ざすのですが、現段階はその「言論・思想の自由」とは本質的に何であるのかが、会員各自の解釈は様々であることは事実であり、それが現在の、よく言えば「寛容な」、悪く言えば「奔放な」、思想というフィールドの混沌に兆しを見出せてはいないからです(傾向としては「意志を尊重」すべきか「人格を尊重」すべきかというところに難色を極めています)。



<<総じて>>
文化連盟の掲げるコミュニティ性への重視を、各個人が『自ら歩み寄らなければ容易く離散する』側面も大いに見受けられるのが哲学研究会の特長ともいえますが、それでも私たちが「サークルとして組織していられる」のは、他でもなく「智を愛している」からではないかと、私は日々感じています。

「中核派団体のダミーサークル」であったかつてより、『哲学』が何よりも強く生き残った現在は、今や「疑問符」を抱き、いつかそれを感嘆符にし、前進する人間の営みの中でのごくありふれたそれを「思慮する」魁でありたいと考えます。
それらを加味し、現在は『非公認』をいう立場を強いられていながらも、「ならばオマエは何をする」と己と常に向き合わざるを得ない、ある部分では『不器用な人間の集まり』なのかもしれません。


<< 文責:哲学研究会 >>

追記:
ところで「文化連盟夏祭り」があるそうですね。
うーーん、とりあえず行こうかなーっと☆
コメント
哲学とは「なんでもあり」。というのは、至言といえましょう。

さらに、「そしてお前は何をする」という問い、たとえば現在の法大当局の横暴に対して「何をする」という問いに対して、哲学は何をできるのか?

一方では「容認する」という結論を下す哲学もあるし、他方では「疑問を呈して立ち向かう」という結論を出す哲学もある。人間の言語・思惟というのはあまりに限界があり、同じ事象を前にして、全く逆の認識や結論を導く事ができる。カントなんかが、『純粋理性批判』でやったのはそういう人間の認識の限界性を証明する事だったのだと記憶しています。

このどん詰まりにおいて、哲学は無力とも思える。そこには、論理的には説明しようのない「怒り」や「決断」というものが働くからだ。サルトル的に言えば、「実存的投機」とでも言うべき領域がある。サイコロは振ってみなければ目が出ない。結果がどうなるか分からないけども、とにかく行動する。そういう領域だ。

しかし、それならば人間の行動というのはバクチに過ぎないのか。そうではない。ここに、哲学が再びその価値を回復する。闘う哲学、自らの怒りを表現する哲学。このような哲学を、闘いながら構築し、実践の結果からさらに思惟を深化させていく。ここに、実践と論理の弁証法がある。

哲学研の諸君が、あらたな闘う哲学を構築され続けることを祈ります。
【2008/06/26 06:18】 | 現役 #- | [edit]
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【2016/05/31 16:07】 | # | [edit]












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プロフィール

文化連盟

Author:文化連盟
1959年創立の法政大学サークル連合。2008年3月に非公認化。活動理念は「自主文化創造」。本業のサークル活動に邁進しつつ、2006年3月14日以来延べ126名の逮捕者、34名の起訴者と13名の処分者を擁する監獄大学爆砕へと学生運動も同時並行。直接行動系。ゆとり世代代表。愛は強し。

2012年5月31日、東大ポポロ座に続き暴処法を粉砕し無罪を勝ち取る。もはや敵なし。俺たち最強。

法大闘争とは何か?


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