FC2ブログ

法大化現象進行中

 2008-10-28
ビラをまいたら逮捕。立て看板を出したら逮捕。演説したら逮捕。集会したら逮捕。挙句、敷地に入っても無いのに逮捕。

んでもって逮捕容疑は何故か事後決定で、事実と真逆のマスコミ報道が流される、と。

これは法政大学で起きている現象なのだが、最近は全国にこの症例が見られるようだ。日本全国法大化現象とでも言おうか。

つい先日は、渋谷の路上で道を歩いていただけの人間が何故か逮捕されている。これも法大化現象のひとつ。以前の5月28日、文化連盟の倉岡雅美を含む5名が歩道を歩いていただけで逮捕されるという事例の模倣といえる。

まあこれを見てくれ。



で、上を伝えるニュースの映像がこれ。



「警察官に暴力を振るった」らしいよ。おかしいなあ、僕にはそんなシーン見えなかったぞ。大体、あの亀仙人はなんだ?「よし!公妨だ!(公務執行妨害)」「押さえろ!押さえろ!」と叫んでるが明らかにおかしな発言じゃないか。公務執行妨害なんていつやったんだ?


この国も終わったな。

【夏休み読書】第二回 法大再編を考える(後編)

 2008-08-26
篠原雅武「剥き出しの突飛な日常~石垣カフェとはなんであったのか」(『現代思想2005.vol33-12』青土社)より

◆要約(p200上段l16~p202下段l21)

3 空間の共有と非暴力直接行動(p200上段l16~p202下段l21)
 結局、8月4日、石垣問題をめぐる説明会で、大学側は原案を撤回し、石垣カフェが提示した修正案をもととする計画変更を確約し、石垣カフェ側は、8月16日までにカフェ等の建造物を撤去するという合意に到達したのであるが、この成果からすれば、カフェのそもそもの目的は達せられたと言える。これだけでも、石垣カフェは特筆に価する。しかしながら、さらに石垣カフェのもう一つの側面、すなわち、開かれた空間としての側面を論じておかなければならない。
 石垣カフェは、石垣上に組まれたヤグラをベースとする。5畳の広さで、二つの部屋に分かれている。狭いはずが、なぜか広く感じられる。これが石垣にかけられた梯子を介して、歩道とつながっている。そこで、学生有志が店員となって、お茶を入れ、客相手に話をする。このようにして、様々な人が、初対面同士であってもちゃぶ台を介してお茶を飲みつつ談笑するのである。石垣問題に関する議論を始め、様々に会話していくうちに、幾度もそこを訪れる常連客が次第に増え、しかも客同士顔見知りになる。また、そこが様々に活用可能であることが発見され、このポテンシャルが媒介となって、さらに関係が広がっていく。
 たとえば、ハート=ネグリによれば、マルチチュードは、一体性や同一性に依拠することのない様々な人の集まりであるが、しかしながら、雑然と集まるだけの群衆でもなく、まさしく何かを共有するところに成り立つ集合体であり、さらにこの共有なるものが土台となって、言葉、情報、感情のやりとりが可能になる。石垣カフェの店員、あるいは客の多くが共有したのは、多くの人と関わっていくスキルであった。石垣カフェが一応の目的達成まで存続したのは、ここに形成された共有物としてのスキルが多くの人を繋いでいたからだ、と考えることができる。
ところで、石垣カフェは対外的には、なにかを無理して主張することよりもむしろ、来た人にコーヒーを出し、簡単な説明を聞いてもらい、など、平凡な、受動的な営みが重視された。重要なのは、店員がそこに、客と共に居続けることであった。確かに、石垣の上にカフェが出現し、そこで人が談笑するというのは突拍子のない事態である。だからといって、そこで行われるのは、平凡な無償労働であり、また、気さくな会話でしかない。日々の平凡な積み重ねが石垣カフェの原動力だった。つまり、石垣カフェの、運動体としての、独自性は、このような日常の営みと、先に触れた関係性の結合に求められるべきであろう。
 ところで、この実践の意味については、向井孝の非暴力に関する考察を参照することで、より明らかになる。向井によれば、直接行動は、第一に必要なものをつくり、そのために働くことである。石垣カフェは大学キャンパスの浄化に抗して、おもしろさを求めていこうとするものが勝手に作った空間だった。もちろんそこに来た人の多くは大学の事情を知らないが、社会で広まりつつある倦怠感に抗するなにかを感じ、それゆえに来てしまったのだろう。
 このような生産し、享受するという日常的営みは、向井によれば非暴力的である。「つまり、何事もないという状況でしかなく、意識しない限り、あるかないかもわからない。だから『これが非暴力だ』とは誰も気付かない」これが、直接行動と結びつき、可視化されることで「ちからとして私たちの前にあらわれる」。石垣カフェは、ここで言う非暴力としての力を可視化して、抵抗力へと転化していく実践であった。突拍子も無い形態と、平凡だが、着実な活動との結びつきが、強烈な力になる。このことが、石垣カフェが残した教訓の最たるものではないか。

◆考察

 前回、石垣カフェにおける批判的側面を考察した。法政大学にも見られる通り、至るところに、均質化する空間が溢れている中、石垣カフェとは、古くなることを宿命付けられている「新奇」なオープンスペースに対抗する反空間として、存在するものであるとの内容であった。今回は、「石垣カフェのもう一つの側面、すなわち、開かれた空間としての側面」を論じる部分である。
 本論では、石垣カフェは、「ここでいう非暴力としてのちからを可視化して、抵抗力へと結び付ける実践であった、とする。石垣カフェの運営は、カフェの運営と同様にして行われ、そこに集まる人間と、交流することに重きを置かれた。ある程度、石垣カフェの政治的目的から、距離を取り、石垣カフェを一つの空間として、在らしめたことが、石垣カフェの独自性であるといえよう。石垣カフェでは、日常生活を営む行為がちからとして、抵抗力に転化する。

◆補遺

当該団体の一人が書いた文章『石垣カフェ――遊戯的実践の空間』の後半部を参考までに記す。詳細は、当該団体のHP等で参照することを勧める。この補遺では、簡単に要約し、補遺を終える。
筆者の笠木氏によると、石垣カフェの開かれた空間としての側面とは、「外部の目的性には従属せず、一定の独立を保って」おり、それゆえ、「まっとうな社会生活のために必要不可欠な時間意識を脱ぎ捨てる」ことのできる空間として、石垣カフェはあったという。また、外部の目的性から独立し、唯一自足することを目的性として持つという意味で、石垣カフェは「遊び」の空間であったといえる。
この小論文によると、石垣カフェは目的性を否定するところに、大学案であるオープンスペースへの批判であり得た。
ちなみに、大学と交渉していたのは、石垣カフェとは別組織であることが注釈によって、明らかとなっている。

文責 ズートロ

さいたま市議吉田一郎に会う

 2008-08-21
こんばんは、水洟と目の潤みが止まらない企画局です。
夏風邪をひいてしまいました。
十中八九T先輩にうつされましたね、はい。

今日は所用で大宮(現さいたま市大宮区)まで行ってきたのですが、東口に降り立つと拡声器で街頭演説をしている方が居られました。
例によって日本共産党かなと思ったのですが、どうも聞き覚えのある声なので近くに寄ってみると紛れもなく法大OBで現さいたま市議の吉田一郎さんです。
政令指定都市の市議でありながらその高額な政務調査費を一銭も受け取らない吉田さんは、法大市民監視団の賛同人でもあられ、529後の緊急集会や、委員長ハンストの際にも駆けつけて下さった方です。
080820_1754~0001
演説中ながら御挨拶申し上げると、
「おぉ後輩よ、奇遇だね、おれ今議員を除名されそうなんだよ」とのこと。
訳が分からず「どうしてですか?」と聞いてみると
「それはこのビラに書いてあるんだけど(ゴソゴソ)、まぁ取り敢えずビラ配り手伝ってよ(ポン)」ということで、突飛な展開ではありますが、私企画もお手伝いすることになります。
バイト帰りの作業服で「よろしくお願いしまーす」と駅前を行き来する老若男女にビラを渡して来ました。

演説終了を待って詳しいお話を伺ってみると、7月9日のさいたま市議会に於いて「議会を混乱させた」との理由で議場を強制排除され、その後懲罰委員会にかけられてしまったそうです。

その際の模様は市ホームページにて動画で公開されています(吉田氏排除の一幕は2:35~16:50となります。議長の人柄は10:10~11:30で分かります)。
http://www.saitama-city.stream.jfit.co.jp/vod_play.php?CNTID=11643&PREVPAGE=%CC%E1%A4%EB

ビラも引用します。

「さいたま市議会では、法的な根拠がない「申し合わせ事項」により、無所属の議員は本会議で討論することができません。これまでの無所属議員は泣き寝入りをしていましたが、私は「意見を表明するのは、議員の責務だ」と、様々な手段で発言を続けてきました。その一つが請願の提出です。請願とは住民が市政や議会への要望として提出するものですが、私は相川議案(注・相川氏はさいたま市長)に反対する請願を提出し、本会議でこの請願を上程する動議を出し、請願タイトルを読むことで、議案の反対理由を述べるわけです。―中略―日本国憲法第16条には「何人も、請願をしたことによっていかなる差別待遇も受けない」と明記されており、請願提出を理由に処罰することは憲法違反です。―中略―また、議会を混乱させた原因は、2月会議では認めた発言方法を、6月議会では突然認めなかった青羽議長の「気まぐれ」に他なりません。―中略―相川議案に反対する議員の言論を暴力で封じ、実質的な弁明の機会も与えず、欠席裁判で除名を含む処分を協議するようなやり方は、まさに「暗黒政治」です。
 
太字部分の語彙を若干入れ替えれば我らが母校にそっくり対応します。
さすがに議会にはジャージを着た人たちはいないでしょうが…
ビラ再末尾は「私は法的手段も含めて徹底的に闘います」と締めくくられていてこちらも我らが文化連盟にそっくり。
少数派であることを厭わず、社会に堂々声を上げている先輩がいることは、後輩としてとても頼もしいことです。
嘗ての法大の懐の深さも窺い知れます。

吉田さんは「来週、ハンストするかもしれない」と仰って居られましたが、やるのであれば私も喜んで連帯させて頂きましょう。
さいたま市議、吉田一郎に今後も目が離せません。



【夏休み読書】 第一回 法大再編を考える(前編)

 2008-08-20
序文

長らくお待たせいたしました。夏休みは分厚い本を読もうと思って、買ってきたはいいのですが、コンスタントに連載できなさそうなので、急遽、我が家の『現代思想』とか、『カイエ・デュ・シネマジャポン』とか、『インターコミュニケーション』とか、批評誌系からそれっぽい記事を持ってきて、紹介、考察をしていくという風に方針を転換しました。
興味が広がったら、ネタ元の記事も読んでみてください。
構想とかは特にないです。



第一回 法大再編を考える(前編)

篠原雅武「剥き出しの突飛な日常~石垣カフェとはなんであったのか」(『現代思想2005.vol33-12』青土社)より


◆要約(p194上段l11~p200上段l15)

1 石垣カフェと京大キャンパス(p194上段l11)

 石垣カフェとは、2005年1月から2005年8月16日までの間、京大の百万遍の交差点に面する石垣の上に立てられたカフェである。一杯50円のコーヒーを飲みつつ、居合わせた人間が語り合うスペースとなり、延べ3500人がそこを訪れた。
そもそも、石垣カフェとは、大学当局のキャンパス整備計画に対する批判的行動であった。石垣カフェの立てられることになる石垣は、地元住民にも親しまれるものであったが、その巨大さゆえ、見通しが悪く、接触事故が時折起きる。大学当局は、その事情に鑑み、石垣を撤去し、そこにオープンスペースを設置する案を出し、学生がそれに反発した。石垣カフェは、その反発の一形態として出現した。ところが、石垣カフェは反対運動の一環である以上に、その空間の不思議さが理由となって話題となる。

2 批判としての直接行動(p196下段l15)

 石垣カフェとは、大学当局の提示したオープンスペース案への根底的批判がまずある。大学は、石垣を壊した後に、オープンスペースとして、交流の拠点として想定される広場を作る。そうすることで、見通しの悪さを解消しようと主張する。確かにそれは、利点があるかもしれないが、それは機能性重視であり、石垣のインパクトと比べ、ありきたりな、軽薄でつまらないデザインであった。この点に限って言えば、カフェによる批判は大学案の概観上のつまらなさに向けられていたといえる。しかし、石垣カフェはより根本的なことを問うたのである。すなわち、石垣がオープンカフェになることはなにを意味するかと問うたのである。オープンスペースは新しい空間ではあるが、新しくなることでなにかが失われる。すなわち、京大で持続し、突飛な創造を可能にしていたなにかがそこで、さらなる展開を阻まれ、消滅の危機に瀕するだろう。さらに言うなら、大学案は、現在至るところで見られる均質化された空間と同種のものであることに気付く。オープンスペースの新しさは少しも個性的ではない。
 ここで言う新しさの意味を考えるにあたって、アンリ・ルフェーブルが『空間の生産』で提示した見解が参考になる。ルフェーブルによれば、空間の新しさは二通りある。「導出された」という意味で異質であることと、「生産された」という意味で異質であることを区別する必要があるという。前者の異質性とは、「ある法則に導かれて算出された集合ないしはシステムの内部に留まる」ものと定義される。つまり、ある一定の規格に規制され、その範囲内でのみ、異質であることを許容されるという意味での異質性、ないしは新しさである。これに対して、後者は、「システムの破砕を前提とする」と述べられる。
 この区別に照らすと、大学案の新しさは、導出される新しさである。都市の至る所で展開途上の均質化されるシステムに石垣の場所を従わせていくことの帰結として産出される新しさを大学案は意図すると言えよう。
 ところで、フレデリックジェイムソンは「ポストモダンの二律背反」と題された論文の中で、ルフェーブルの言うシステムが、1990年代以降、社会生活の至るところに及んでおり、さらに規格化していく力も強力になっている。しかも、そこでの変化の速度は加速しているのであるが、奇妙なことに、これらが同時的に進行する。システムは、規格化しつつ、変化させていくという、相容れない過程を共存させていくのである。大学案は、社会生活を規格化していくシステムに石垣を組み入れることであるが、それは、また、急速な変化のリズムに従わせていくことをも意味する。たとえ、できた当初は新奇さを維持したとしても、このシステム内に存する限り、他の、大学外との趨勢との関わりにおいては、急速に古びていくことを宿命づけられている、ということになる。
 石垣カフェの批判対象は、オープンスペースというよりはむしろ、大学の企図であった。そこには、石垣という、古き良き風景を愛惜するという保守的な心情とは別に、均質化するシステムを拒否するという、よりラディカルな意志があった。だから、石垣カフェは均質化の過程で生産された空間、それも均質化された空間とは別な意味で新しい空間と捉えるべきであろう。
 なお、ルフェーブルは、システムの制約を乗り越え、逸脱しているという意味で新しい空間についてこう述べる。それらは「均質化の余白において、抵抗、ないしは、外にあるものとして、維持され、始動することになる」。つまり、均質化の波が及ばず、取り残されているものが、新しい空間が生産される場所となる。
 しかしながら、大学当局は、この特異な場所を均質化過程に組み入れようとした。ルフェーブルは、たとえ、そこが均質化過程から逃れた余白であっても、攻勢には出ず、防衛的な姿勢に留まるのならば、いずれ、均質化されるだろうと述べ、余白を余白のままにせず、むしろ、そこで、反空間を生産していく実践の必要を説く。均質空間とは異なる空間でそこを充たすこと、すなわち占拠が不可欠なのだ、と。石垣カフェは反空間だったのではないか。
 ところで、ルフェーブルは、反空間の特徴についてこう述べている。それは、「現存する空間を模倣し、パロディ化する」。カフェという発想自体、ここ数年で顕著となったアメリカ資本のカフェのパロディであるし、また、そこは字義通りのオープンスペース、すなわち開かれた空間だった。

3 空間の共有と非暴力直接行動

※「以上、石垣カフェの批判的側面を中心に論じた。(中略)しかしながら、さらに石垣カフェのもう一つの側面、すなわち、開かれた空間としての側面を論じなければならない。(p200上段l15~p200下段l2)」とされている。要約者は、「石垣カフェの批判的側面」を論じた部分での要約を中断する。


◆考察

 大学当局による再開発に反対する立場としては、この石垣カフェという空間は非常に参考になる部分が大きい。おいおい、後半部分も要約し、考察の俎上に上げようと考えているが、この時点での要約を今の法政大学の再開発に照らして論じることにする。
 法政大学において、この「石垣カフェ」、ないしは「石垣再開発」がはらんでいる問題は非常に近いところで進行している。本ブログでも好評を博す『法大問題を考える~矢部史郎×井土紀州対談』においても、井土紀州氏が指摘していたことだが、法政大学においては「近年著しくノイズのある空間が失われ、均質化された、清潔な空間ばかりになってしまった」とされる。学生スペースとして、大きくは学生会館の解体、外濠校舎の竣工。アドバン坂の解体、キャンパス中央の設立。学生スペースではないが、第一校舎の解体、プロパガンダカリヨン(?)の設置もその中に入るであろう。個性的な建物は消え去り、無個性な空間が広がってきていると感じるのは、法大生以外でも多いであろう。もちろん、無個性というのは、主観的な判断なのかもしれない。こう言い換えられるだろう。既視感を覚える風景である。『法大問題を考える』における井土氏の批判の要旨は「(神戸の少年Aの事件を引いて)均質化された空間において、自殺者や、第二の酒鬼原が出る」とする。後述するが、篠武氏の批判には井土氏の批判とは多少異なったところにあることがわかる。
著者である篠武氏の主張を、以下に、簡単に要約する。アンリ・ルフェーブルの概念によると、導出された異質性と生産された異質性とが異質性の二通りの用法としてある。大学案としてのオープンスペース案とは、均質化され、個性の失われた空間としての、導出された異質性である。その異質性における導出する方のシステムとは、90年代以降、変化の速度、すなわち、新しくなる速度の増加と、規格化していく力とが共存する形で進行する。本文では、このシステムが導出するのは、「チェーン店系のカフェ、ファストフード店、コンビニエンスストアの空間」が典型例として言及されている。
 ここにおいて、井土氏と篠武氏の批判は同様である。両者とも、導出された異質についての言及は同様だ。しかし、篠武氏においては、「たとえ、出来た当初は新奇さを維持したとしても、このシステム内に存する限り、他の、大学外の趨勢との関わりにおいて、急速に古びていくことを宿命づけられている」とする。「このシステム」は規格化すると同時に、その規格が変化する速度も速い。外濠校舎やキャンパス中央、プロパガンダカリヨンは、これによると、そのうち「古びていくことを宿命づけられている」ことになる。大学の狙いが、新入生への「新奇さ」アピールだとしたら、これは悲劇以外のなにものでもないが、ここでは置いておくことにする。篠武氏の批判が、「古びていくこと」が「宿命づけられている」という大学案への批判である。だとしたら、微妙に異なる井土氏の批判の先はどこへあるのか。それは、大学案の「反空間」としての石垣カフェをつくりあげ、それを運営した側から考察することにする。


文責 ズートロ

【哲学】夏休み特集【はじめました】

 2008-07-29
最近の文化連盟ブログの荒廃ぶりを見てみるがいい。
内容の薄さに愕然としている読者の声がここまで聞こえてくるほどだ。
「妹の携帯の話なんてどうでもいいんだよ」
「恩田なんてただのヤクザじゃねえか」
ただでさえ、くそ暑い中、こんなブログ見てられないと、眠れる獅子が目をさました。

我らがズートロ先生がついに立ち上がった!!

文学部哲学科の鬼才として恐れられ、文化連盟のリーサルウェポンとまで呼ばれたあのズートロ大先生が当文化連盟のブログ上にて、連載をスタートするとおっしゃられた。

これは革命が起きた!!

その連載とは、どんなものなのか、いつ始まるのかは、本人の口からは明かされていない。
しかしながら、これまでの活躍から、鬼才かつリーサルウェポンな連載になることは間違いないだろう。
今後のズートロ先生の活躍に期待が膨らむ。


近日公開予定

情報技術とぼくらの社会(2006年4月発行『季刊社会科学』よりの転載)

 2008-05-07
 もしかしたら情報技術で社会を語る試みは時代遅れのものかもしれない。一時期の「IT革命」に代表されるようなITバブルの世紀を経てホリエモン逮捕に象徴されるようなバブルの崩壊の現在に至る。かつて横文字の華々しさとともに使われていた「情報技術」はもはや古びた概念として確認されるだけだろう。
 だが、最近の傾向として東浩紀や鈴木謙介、大澤真幸などのようなメディアに登場する批評家の中には、社会を情報技術の比喩でもって語るという傾向が見出される。現在、私の手元にある数冊の彼らの著作を見ても「ソフトウェア」「OS」「データベース」など、かつてもてはやされた情報技術の用語が並んでいる。本来なら、情報技術で社会を語ることは奇抜ささえ、残らない状況だ。ではなぜ、彼らが情報技術の言葉で社会を語るのかに謎が残る。本論文ではそこに問いを立てたい。

 だが、その答えは単純かもしれない。比喩を用いることが可能なのは、そこにアナロジーがみつかるからだ。情報技術と現代社会との間には共通点がある。まずはアナロジーを見つけるために彼らの語る社会の様相を素描してみよう。
まず彼らにおける社会の様相は「ポストモダン」であることには一致を見ている。ポストモダンとは、万人に共通な合意がなくなった社会であるということだ。価値観が多様化したという事実は現象として認識されているかもしれない。かつてあった国民国家幻想や世間などのように我々が「我々」と語る際に暗黙の前提としてあった集団がなくなる事態をポストモダンと呼ぶ。それはいわゆる「大きな物語」が消滅することを意味する。近代から後期近代に移行すると、共同体がうまく機能しなくなり、人間関係が断片化し、隣近所がなにをやってるかさえわからないという状況がそこかしこで確認されうる。下町の長屋住まいがマンション化するという移行をイメージするとわかりやすいかもしれない。
ここで重要なのは大きな物語のように社会の「中心」がなくなることだ。メディア論の文脈で言えば、大きなメディアの優位が崩れ、ブログやはてな、Mixiなど様々な小さなメディアが乱立し、TV、ラジオの機能が縮小する。その際、かつてあった「誰にでも届く」TVという「中心」が消え、「誰に届くかわからない」インターネットが勃興する。
だとしたら、現代社会と情報技術のアナロジーは容易く見つけられるかもしれない。
ネットワーク及び情報技術の概念は、それまでの通信と異なり、「中心」を持たないことにその特徴がある。
ネットワーク技術が開発されたのは20世紀の中ごろにさかのぼる。当時、アメリカはソ連による宇宙からの核攻撃や実際に起こった電話基地局を狙った同時テロの影響で、非常時に際しての通信戦略に腐心していた。ここでの問題は通信には「中心」という通信基地局があることに集約される。通信基地局は各地の通信局から発信される通信を管理し、中継する役割を持つ。通信は「中心」よる一括管理がなされていた。そして、当時はその「中心」がネックになり始めたのである。電話網が電話基地局という「中心」を攻撃される危険であるとして、「中心」がないシステムを考案した。「中心」を分散化させ、基地局の崩壊による通信網の麻痺を防ぐことにしたわけだ。そして、それが現在のインターネットの基礎になり、情報技術は全般的に「中心」を持たないシステムになった。
 そしてここで現代社会と情報技術のアナロジーがみつかる。現代社会と情報技術とは「中心」をもたないということで一致しているわけだ。ここでとりあえず問題を閉じ、より問題に接近するために多少迂回しながらも情報技術のモデルの助けをかり「中心」の無い社会を描写することにしよう。

 まず、リバタリアニズムの権力論から入ろう。リバタリアニズムはポストモダン的という意味で現代の政治思想だ。公共性という「中心」に準じる限りにおいて自由を放任するリベラリズムや、共同体という「中心」に従う限りで自由を許容するコミュニタリアニズムとは異なり、リバタリアニズムはどんな共同体であっても他の共同体に迷惑をかけない限りではなにをしても良いという「中心」無き思想だ。そこでは守られるべきルールはほとんど無く、仮に共同体内でホロコーストを行っても他に止める術はないのだ。そのため、一見、リバタリアニズムの思想はシンプルであり、他の政治思想と比べて放任的に映るかもしれない。だが、リバタリアニズムは「中心」がないことで多様性を保持できるという特性がある。それは分散化した結果、物理的に管理できる量が増えたという理由による。そのこと自体は大きな利点ではあるが、「中心」がないことは権力論にとって致命的である。これまでの権力は「中心」がメッセージを発することで成り立っていた。そして現代の権力は「中心」の無さにより、規範さえ、生じない。ここにおいて困難を迎える。
リバタリアニズムの権力論がなぜ難しいのか。そのことに答えるために、なぜ我々が権力に従うかを簡単に説明しておこう。
 まず、我々が行動する際、いくつかの可能性を事前に考えている。その可能性はこれまでの経験により増えた選択肢の束だが、我々は実際に行動する際、その選択肢の束から、その状況に最も適した選択肢を選択する。選択肢を選ぶ過程には規範ないし権力に照らし合わせることでその選択肢を善‐悪のスペクトルに変換し、分類する。そのことにより、規範の定める適切な行動ができ、秩序が生成されるという仕組みだ。選択肢は規範により選ぶことができると換言してもよい。
だが、現代社会にとっての「中心」の支配は物理的に困難になる。繰り返すが、ポストモダンとは個々人の幸福が個々人各様になり、複雑性を増すようになる。そのことにより、「中心」が権力を行使する手段は失われていることになる。メディア論に照らして言えば、大きなメディアが不可能になったことが例として挙げられる。つまり、規範が消える。
 では、規範の消えたリバタリアニズムはどうなるか。当然、選択肢はスペクトルに分類されず、宙に漂うしかなくなる。つまり、中心が機能しなければしないほど、権力、規範にとって思わしくない行動が増える。これは昨今の犯罪事情に照らしても明らかだろう。規範を通過しない犯罪は、動機の不明瞭さで、我々を不安にさせる。
 リバタリアニズムは中心がないことで多様性を確保できたはずであるにも関わらず、中心の無さゆえに権力が行使できない構造がある。だが、トック・ヴィル主義に見られるように、共同体間の調整を元にした国家体系となっているアメリカでは意外とうまく行っている背景がある。ではそのシステムはどうなっているのか。
もちろん、これは中心の無さを先取りしたネットワークの世界のシステムで解くことができる。ネットワークは中心によらずに分散化した結果、逆に、ネットワークを見渡す視点をもたなくなってしまった。つまり、「中心」が意味づけできるキャパシティーを物理的に超えてしまう。だが、そこで登場するのが検索エンジンの存在だ。
 検索エンジンはまさに情報の海と化したネットワーク上を照らす役割を持つ。我々が普段使用するGoogleやyahooなどの検索エンジンは意外と単純な図式で成り立っている。GoogleはHPを検索する時にランキング形式で表示されるのだが、その際のランキング方式に検索エンジンの特徴が現われている。まず、任意のHPが別のHPにリンクされている場合、それをカウントする。また別のHPにリンクされている場合はそこをカウントする。そして、そのカウントの数でランキングを表示するのだ。そしてユーザーはそれを知らずに上からHPにアクセスする。つまり、検索エンジンの側でユーザーが「見たいであろう」と予測するプログラムを実行し、ランキングを表示するのだ。当然「見たいであろう」理由は多くの人がそれを見たいと思っているからあなたも「見たいであろう」という論法で成り立っている。人はそれを知らずに情報を享受しているのだ。
 換言するならば、検索エンジンのアルゴリズムが人間の代わりに選択肢を意味づけしてくれる機能だと言える。そうでなければ、人間にとっての認知限界を超えてしまうことになる。
かつての大きな物語を前提とした権力が、所与の選択肢に意味づけを与え、それを善悪のスペクトルに変換していた。しかし、「中心」が存在しないことで意味づけが不可能となった。従って、取るべき措置は任意のアルゴリズムによってあらかじめ選択肢の束を選別し、どの構成員にとっても悪である選択肢を初めから奪ってしまうことで「中心」が不要になる。つまり、ユーザーにとって合理的である可能性の低い選択肢を初めから奪ってしまう。これが検索エンジンの比喩になる。
 リバタリアニズムもこれと似た構図を持つ。要は選べる任意の選択肢を善悪のベクトルに分解するのではなく、「見たいであろう」と予測する選択肢を選ばせられるという仕組みによって権力は作動する。つまりは選ばれたくない選択肢を初めから選べないようにしてしまうのだ。東浩紀は前者を規律訓練型権力と呼び、後者を環境管理型権力と呼ぶ。環境を管理することで選択肢を選ばせないようにするのだ。その論拠は「見たいであろう」選択肢であるという理由からだ。
 つまりこれによって「中心」に依らずに全体に行きわたるメッセージを発することができ、リバタリアニズムは「中心」を経ることなくネットワーク間の秩序を維持できるのだ。社会の正しさと共同体の善を区別できる。従ってリバタリアニズムの国家が悪いというときには、ネオリベラリズムがいけないのではなく、「選んではいけない選択肢を選ぶ」基準が悪いのだということができる。
話はずれるが、アメリカの場合は具体的にはネオコンだ。この場合、共同体の善がネオリベラリズムの正に置き換わり、アルゴリズムが形成されていることを指摘しておく。彼らに見えているのは石油利権共同体の善である。そして、共同体の善に反対するイラク、アフガンを攻撃する。

ここで意味的領域における権力が非意味的な領域の権力に置き換わるという変化がここで起きていることが指摘できる。そして、同時に社会におけるコミュニティーの成立条件がこれまでのそれとリバタリアニズムのものとは異なるようになる。つまり、大きな物語による意味づけではなく、リバタリアニズムはアルゴリズムに反しない限りにおいてコミュニティーは成立するということだ。その分、分散化が働き、インフラの収容能力があがる。そこでは「中心」による善-悪図式ではなく、アルゴリズムによる「正-偽」図式になる。ここにおいて正と善の分離が生じ、トック・ヴィル主義が可能になる。
だが、逆にリバタリアニズムとは、つまり、閉じられることにより開く構造にあると言える。ゲーテッド・コミュニティーのようにありうるリスクを意味上で合意するのではなく、リスクになりうる選択肢を奪うことでメタ的な信頼を得る。だが、ここにおけるリスクになる選択肢とはゲーテッドの名の通り、他のコミュニティーと関わるという選択肢を奪うことを意味する。間コミュニティー性は「中心」により、保証されなければ存在しない。つまり、他コミュニティーに対しての想像力が開いていないと言うことができる。間コミュニティー性はアルゴリズムにとっての不可能性なのである。
そして、アルゴリズム的な世界観はこのゲーデッドなコミュニティーによって占められている。従って「多様性」に見えるのは単なる錯覚で、文化論の文脈で語られる多様性とは異なる現象だと言える。つまり、意味づけされた選択肢を合意の上で排除するのではなく、選ばれない選択肢としてしまうことと同じ論法である。
従って我々が学ぶべき箇所は、情報技術のモデルと大きな物語的なモデルとの差異に敏感になることであり、そして情報技術のモデルは中心を語ることができないということだ。多様性はこの場合、中心によって可能となる部分だ。
 東浩紀などの論者はリバタリアニズムがこれまでとは異なり、多様なコミュニティーの成立を可能にする下部層としてのインフラと捉えているが、これは単純に誤解である。
我々の社会は権力-被権力の関係、つまり中心-周縁の関係ではなく、周縁とそれを規定するアルゴリズムの存在だと整理することができる。そこでは社会を脅かす「特定」の悪は存在せず、共同体の下部構造であるアルゴリズムを脅かす存在が唯一としての偽としてある。この差異は重要だ。

以上の議論が情報技術で語る社会の素描である。もちろん情報技術の比喩で社会のあらゆる事象を語ることができるだろう。重要なのはそのモデルが中心を持たないということだ。そして現代の社会は「中心」を持たないモデルが有効なのは確かだろう。もしかしたら「中心」を語る役割を持つ哲学は用済みかもしれない。
だが、情報技術のモデルは欠陥がある。そもそも根本的な問題としてアルゴリズムに規定された社会がなぜ悪いのかという問いには答えられないという問題がある。無理に答えようとするとその悪は「アルゴリズムに悪と書き込まれているから悪だ」という循環を含んだ論法に陥らざるを得ない。この理由は、なぜ悪いかという問いが中心に関わる問いだからである。その問いを情報技術のモデルは「中心」を持たないゆえに語ることはできない。
またリバタリアニズムにおける多様性の問題もこれと同様の質をもつ。間コミュニティー性はまさに中心に関わる問いだ。全体を見渡す視座にもなりうる「中心」の無さは、全体を見渡すことの困難さを意味する。従ってコミュニティーは孤立した島宇宙となるしかない。
中心ではなく周縁に依存することで効力を発揮する経験的な学問は超越論については無知だ。そもそもネットワーク型社会が善なのか悪なのかという根本的な疑問は哲学にしか判断できない。情報技術の比喩を語る論者は「中心」の無さゆえに根本の問題を解けずにいるのだ。そして、これが現在我々が抱えている問題である。(了)



※トック・ヴィル主義
個人の所属する共同体における善-悪の概念を、共同体の集合である社会の正-偽と区別する思想。このことにより、アメリカでは多様な人種がそれぞれの利益を守りつつも、社会を崩壊させまいとする力になる。

※ゲーテッド・コミュニティー
都市化などの影響で共同体に不審感が蔓延すると、住民は不安に陥る。それを防ぐため、一種城のような共同体を作り、不安感を無くしてしまう。また、ゲーデッドコミュニティーの成立には情報技術の進歩が関与している。


ズートロ(05年法政大入学。Ⅰ部社会科学研究会所属)
≪ 前ページへ ≪ トップページへこのページの先頭へ  ≫
プロフィール

文化連盟

Author:文化連盟
1959年創立の法政大学サークル連合。2008年3月に非公認化。活動理念は「自主文化創造」。本業のサークル活動に邁進しつつ、2006年3月14日以来延べ126名の逮捕者、34名の起訴者と13名の処分者を擁する監獄大学爆砕へと学生運動も同時並行。直接行動系。ゆとり世代代表。愛は強し。

2012年5月31日、東大ポポロ座に続き暴処法を粉砕し無罪を勝ち取る。もはや敵なし。俺たち最強。

法大闘争とは何か?


HomePage:http://hoseibunkarenmei.xxxxxxxx.jp/index.html
Twitter:https://twitter.com/jinmin1991
Twilog:http://twilog.org/jinmin1991
MailAddress(文化連盟執行委員会):
bunren08@yahoo.co.jp

求ムカンパ!:
みずほ銀行
口座名 法政大学文化連盟
市ヶ谷支店番号207
口座番号2017393

リンク